
第15章
三十日
一が歩いていった先に、扉があった。
金属の壁に、四角い切れ目が入っている。高さは人の背丈より少し低い。取っ手も蝶番もない。
一は扉の横の壁を、決まった場所を三回押した。押すたびに、指が沈む深さが違った。
扉が内側へ倒れた。倒れて、床になった。
『九年かかった。押す場所を見つけるのに、七年だ』
「残りの二年は」
『押す順番だ』
中は、細い通路だった。幅は肩がぎりぎり通る。
そして、上へ伸びていた。
一が灯りを差し入れた。白い光が壁を照らす。壁には、横向きの棒が等間隔で埋まっていた。足をかけて登るためのものだ。
光は、上へ十メートルほどで届かなくなった。その先は見えない。
*
「どこまで続いてる」
『上までだ』
「上って、地面までか」
『そのはずだ。三千八百メートルぶんある』
「登ったのか、あんた」
『百二十メートルまで登った。それから下りてきた』
「なんで下りた」
一は灯りを引っ込めて、扉の縁に腰かけた。
『計算したからだ。一日に百三十メートル登れるとして、三十日かかる』
「三十日」
『途中に水はない。食い物もない。休む場所もない。棒に腕を通して寝るしかない』
「三十日ぶんの水を背負えばいい」
『三十日ぶんは六十リットルだ。六十キロ背負って壁を登れるか』
マーロウは黙った。
『おれには無理だ。だから下りた』
*
一は、そこで話を変えた。変えたようで、変えていなかった。
『おまえ、いつから痛みが消えた』
「壁を越えて戻った日から数えて、二日目の夜だ」
『寒さは』
「五日目の朝」
『渇きは』
「十日目くらいだ。味もなくなった」
『眠気は』
「十四日目あたりから、眠くならなくなった。今日、二十日あまりぶりに眠くなった」
一はうなずいた。何度もうなずいた。
『おれは順番が分からん』
「分からないって、どういうことだ」
『十一日目の朝に、全部いっぺんに来たからだ』
マーロウは、その言い方に引っかかった。
「待てよ。あんた、十一日目を過ぎたのか」
『過ぎた』
「じゃあ、あんたも一回は」
『なった。二年半な』
「二年半」
『十一日目に変わって、そのまま二年半だ。街で荷を運んで、人に様をつけて喋って、名簿が来て、何も言わずに籠に乗った』
「覚えてるのか、それ」
『全部覚えとる。消えるのは記憶じゃない。自分が自分だという感じだけだ』
一は、自分の手の甲を見た。切り傷が何本も入っている手だ。
『見てたよ、ずっと。自分が丁寧に返事をするのを、後ろから見てた。二年半な』
マーロウは、何か言おうとして、何も出てこなかった。
「…戻ったのはいつだ」
『下りてから三か月だ』
「勝手に戻るのか」
『水のそばで三か月寝起きした。ある朝、腹が立った』
「腹が」
『籠が空で上がっていくのを見て、腹が立った。二年半ぶりだ。それで戻ったと分かった』
マーロウは、そこでもう一つ気づいた。
「潜りに選ばれるのは、変わった後なのか」
『後だ。変わる前に籠に乗せたら、嫌だと言うからな』
「十四人とも、そうだったのか」
『十四人ともだ。おれもそうだ』
「街にも二人いる。おれの知ってるやつだ」
『潜りがか』
「違う。ただの拾い屋だ。二十年同じ相棒とやってた男が二人、一晩でああなった」
一は、そこで初めて手を止めた。
『一晩でか』
「一晩だ。夜に連れていかれて、その日の晩にはもう様をつけて喋ってた」
『それはおれたちの話じゃない』
「同じに見えたぞ」
『見えるだろうな。だが一晩では来ん。おれは十一日かかった。十四人ともそうだ』
一は、指で床を二回叩いた。
『それは後だ。先に順番を片づける。おまえだけ遅い理由からだ。心当たりはあるか』
マーロウは、心当たりを一つだけ持っていた。
「壁の向こうで、海の水をかぶった」
『かぶった。飲んだんじゃなくてか』
「船が爆発して、海が立ち上がった。粒が飛んできて、おれの血の上に落ちた」
一は、しばらく黙っていた。
『それだ』
「何がだ」
『それが起点だ』
「起点」
『十一日をどこから数えるかという話だ。上の連中は、壁の向こうから戻った日から数えとる。あれは半分しか合っとらん』
「じゃあ何から数えるんだ」
『海の水に、初めて触れた日からだ』
マーロウは、その意味を掴むのに少し時間がかかった。
「初めて、って言ったな」
『言った。一度も触らんうちは、体は海の水を知らん。知らんものは欲しがらん。だから何も起きん』
「触ったら欲しがるのか」
『欲しがる。一度知ったら二度と忘れん。そこからは、体の中に海の水が要る』
「入れなかったら」
『最初に触った分で食いつなぐ。それが蓄えだ』
「蓄えが切れたら」
『自分の水を使いはじめる。少しずつだ。ある量を切ると、自分が自分だという感じが消える』
一は指を一本立てた。
『だから、持ちは触った量で決まる。手首まで浸けた程度なら十一日。それだけの話だ』
マーロウは、自分の十年を数えた。
市場で拾い屋をやって、壁の外の骨から服を剥いで、雨の日は納屋で寝た。海には近づかなかった。近づく理由がなかった。
十年、何も起きなかった。
「おれは三十近い。十一日で変わるなら、とっくに変わってるはずだ」
『触っとらんからだ。触るまでは何も起きん。十年でも二十年でも起きん』
「壁の向こうで浴びた。あれが初めてだった」
『そこから動きだした。そこから十一日だ』
「十一日で変わらなかったぞ」
『量だ。おまえは浴びとる。海が丸ごと立ち上がって、その先が降ってきたんだろう。普通は、手首まで浸ける程度だ』
「しぶきが飛んだくらいでもか」
『それは始まらん。濡れた砂を踏んでも、雨みたいに散った飛沫でもだ』
「じゃあ、どこからだ」
『肌がしばらく浸かって、体が水を覚えるくらいからだ。手首まで入れて、十を数える。それくらいだな』
「多く浴びたほうが長く保つのか」
『蓄えだと言っただろうが。多けりゃ長い。それだけだ』
「あの筒一本で、何日ぶんだ」
『一本で一日だ。おまえが浴びた量なら、二十日ぶんはあったろうな』
「あんたは十一日だった。あんたはいつ触った」
『覚えとらん。作られたときだろうな。気がついたら街におって、そこから十一日だった』
「触った覚えがないのに、十一日か」
『手首まで浸けられたということだ。作った連中が、そのつもりで浸けたんだろう』
マーロウは、自分が数えてきた日数を並べた。
痛みが二日目。寒さが五日目。渇きが十日目。眠気が十四日目。
一度に消えたのではない。浴びた分が、少しずつ減っていた。
「黒の書の九人も、おれたちと同じ生まれなのか」
『違う。あれはただの人間だろう』
「じゃあなんで変わった」
『誰でも変わるからだ』
マーロウは顔を上げた。
「誰でも」
『誰でもだ。海の水に浸かったら、人間は十一日目に変わる。おれたちだけの話じゃない』
「じゃあ、あの禁止は」
『本当のことだ。三百年、正しいことを言い続けとる。理由を誰も覚えとらんだけだ』
マーロウは、生まれてから何度も聞いた言葉を思い出した。
海水に触ってはいけない。なぜなのか説明できる人間に、一度も会ったことがない。
説明できないだけで、間違ってはいなかった。
「じゃあ、おれたちの違いは何だ。誰でも変わるなら、なんでおれたちが下ろされる」
『血だ』
一は水際を指した。
『おまえがさっき手を入れた。水が粒になったな。あれはふつうの人間の血では起きん。切った指を突っ込んでも、水は水のままだ』
「試したのか」
『おれじゃない。上でやったんだろう。やらんと分からんことだ』
「じゃあ、おれたちは」
『海を粒にするための道具だ。それだけのために作られとる。変わるのはおまけだ。人間なら誰でもなる、ただのおまけだ』
「オークやゴブリンはどうなんだ」
『そっちは変わらん』
「なんで言い切れる」
『街におった頃、壁番の話を聞いた。見張り台から落ちたオークが二人おったそうだ。二人とも波をかぶって、二人とも何ともなかった。今も勤めとる』
マーロウは、その話を頭の中で確かめた。
海壁の上に立っているのは、たいていオークだ。何十年も、海から百メートルのところで飯を食って寝ている。
変わったという話を、一度も聞いたことがない。
「じゃあ、オークに汲ませりゃいいだろ。あいつらなら平気なんだから」
『汲ませとるよ。上の樽はオークが運んどる』
「潜りもやらせりゃいい」
『それは無理だ。あいつらの血では、水は水のままだ』
一は、そこで初めて、皮肉のようなものを言った。
『海に触っても平気な連中は、海を粒に変えられん。海を粒に変えられる連中は、触ったら変わる。うまく出来とるだろう』
マーロウは、ドラグのことを考えた。
あの男なら、ガラスを割っても平気だ。素手で持てる。飲んでも何も起きない。
それがどれだけ使える話なのか、マーロウには判断がつかなかった。
マーロウは、自分の肩を押さえた。八針の傷が消えた場所だ。
「ここにいれば進まないんだな」
『進まん。目の前に海がある。体が自分の水を使う必要がない』
「一日もか」
『戻ってからの八年あまり、一日もだ』
「さっき眠くなったのは」
『水のそばだからだ。おまえも三か月いれば、全部戻る』
「三か月」
『三か月だ。ここにいればな』
*
一は、そこで話を戻した。
『街の二人だ。一晩で変わったと言ったな』
「言った」
『それは海の水じゃない』
「同じに見えたぞ。喋り方も、頭の下げ方も」
『見えるだろうな。だが理屈が合わん』
一は、水際のほうへ顎をしゃくった。
『海の水は蓄えだ。多く入れば長く保つ。少なければ短い。どっちにしても、一晩で切れるほど少ない量というのは無い。手首まで浸ければ十一日だぞ』
「飲ませたら早いんじゃないのか」
『逆だ。飲めば蓄えが増える。もっと長く保つ』
マーロウは、その言葉を二回頭の中で繰り返した。
合っている。合ってしまう。
「じゃあ、あいつらは何をされたんだ」
『知らん』
「知らんって」
『おれが知っとるのは、この体のことと、この穴のことだけだ。九年ぶんな。それ以外は知らんと言うしかない』
一は、そこで初めて、少し言い方を変えた。
『ただ、一つだけ言える。誰かがやったということだ』
「そりゃそうだろ」
『おれたちは十一日かかる。上の連中は一晩でやった。十一日を一晩に縮める方法を、誰かが持っとる』
マーロウは、ヴェスタの店の夜を思い出した。
オットが上着の内側から、指ほどの小さなガラス瓶を出した。栓を抜いて、中身を一滴だけ親指に落とした。血が粒になった。
あれは海の水だ。血を試すために持ち歩いていた。
あの晩、あの男たちは、マーロウが正しい方かどうかを確かめに来たと言った。
確かめる道具を持っている連中が、確かめる以外のことをしていないと考える理由は、何もない。
「戻せると思うか。あの二人」
『分からん。同じものなら、海の水を切らさず三か月で戻る。違うものなら、何をしても戻らん』
「同じものって、何だ」
『一晩で変えられるほど強い水なら、深い水だろうな。この底の水みたいな』
『深い水には、目に見えんほど小さい生き物がおる。日の光を一度も浴びたことのない暗がりでしか、生きられん連中だ。日に当てたら、一日で死ぬ。一日でな』
「なんで分かる」
『九年、ここで暮らした。日の射さんこの底で、おれは戻った。それに、上から下りてくる空の筒は、毎回、黒い布で巻いてある。巻いたまま返せということだろう』
『壁の外の海は、浅い。日に当たっとる海だ。あれにも小さい生き物はおるが、日に慣れた別のやつで、弱い。だから十一日かかる。一晩で変わったもんを戻すなら、同じ暗がりの水でなきゃ戻らん』
「試す価値はあるか」
『おれなら試す。ほかに手がないならな』
「三か月ぶんは、どれくらい要る」
『一滴ずつ毎日で、筒一本ぶんだ。一人にな』
マーロウは、その数字を聞いて、指を折った。
ヴェスタの店の棚に、麻の反物が何十本も並んでいる。その中の一本に、ガラスの筒が一本、縫い込んである。
一本だ。
「二人いるんだよ」
『だったら一人だ』
一は、それ以上やさしい言い方をしなかった。九年、やさしい言い方をする相手がいなかった男だ。
『言っておくが、選ぶのはおまえじゃない』
「じゃあ誰だ」
『二十年一緒にやってた男がいるんだろう。そいつだ』
*
マーロウは、通路の上を見た。
暗い。何も見えない。
「三十日登ったら、途中で十一日目が来るな」
『十一日どころじゃない。おまえの体は水を使い切る。三十日目に上へ出た男は、おまえの顔をしていて、おまえの記憶を全部持っていて、会った人間を様と呼ぶ』
「それはおれじゃない」
『おれもそう思う。だが上の連中には見分けがつかん』
ウィラの顔が浮かんだ。
浮かんだというより、ずっとそこにあったものが前に出てきた。
「見分けがつく人間が一人いる」
『そうか』
「気づかれたら、たぶんあいつが壊れる」
『そうだろうな』
*
一は立ち上がって、暗がりの奥へ歩いた。
戻ってきたとき、木の箱を引きずっていた。
蓋を開けた。
ガラスの筒が入っていた。並べて、藁で隙間を埋めてある。
マーロウは数えた。
三十本あった。
「…これは」
『海の水だ。ガラスに入れてある。ガラス越しなら粒にならん。だから帝国もガラスで運ぶ』
「瓶はどこから持ってきた。ここで作れるもんじゃないだろ」
『籠が下りてくるたびに、空の筒が二本入っとる』
「二本」
『割れるからだ。三千八百メートル下ろすんだぞ。壁に当たる。運ぶのに使うのは一本だ。予備がないと、割れた三か月がまるごと無駄になる』
「割れなかったら、一本残るな」
『残る。九年ぶん残った』
「上は数えないのか」
『上が数えるのは、上がってきた筒の数だけだ。下ろした空き瓶を数えた書類を、おれは九年で一度も見とらん』
マーロウは箱の中の筒を、もう一度数えた。
三十本。籠が下りた回数は三十四回。
数が合っている。
「どうやってためた。水のほうだ」
『籠は三か月に一度上がる。九年で三十四回だ。上げるたびに、汲む量を倍にした。半分を籠に乗せて、半分をここに残した』
「上に気づかれないのか」
『上へ行く量は三キロのまま変わらん。書類に出るのはその数字だけだ。下で何リットル汲んだかを、上の人間が知る手はない』
「四本ぶんは」
『割った。最初の一年は、栓の締め方も知らんかった』
「一日一本でいいのか」
『一日一本だ。三十日で三十本。ちょうどだ』
「予備はないのか」
『ない。そこが問題だ』
一は、箱の蓋を指で叩いた。
『三千八百メートルを三十日登るんだぞ。どこかで一本は割るか落とす。おれは百二十メートル登ったときに一本割った。百二十メートルでだ』
「割ったら足りないな」
『足りん。割った日数ぶん、おまえは早く終わる』
一は箱の縁を叩いた。
『一本で一日ぶん遅らせられる。飲むのはやめとけ。腹の中で粒になる。手を浸けても同じことだが、筒の口に手は入らん。切って、傷に垂らせ。梯子の上なら、それがいちばん早い』
「垂らしたら、粒になって落ちるだろ」
『なる。それでいい。粒になる前に、水はおまえに触れとる。体が覚えるのは、触れたほうだ』
「痛いだろ、それは」
『痛みは感じんだろうが』
マーロウは笑いそうになって、やめた。
*
それから、勘定に気づいた。
「これ、あんたのぶんだろ」
『そうだ』
「九年ためたんだろ。自分が登るために」
『そうだ』
「じゃあ渡せないだろ」
一は箱の蓋を閉めて、その上に手を置いた。
『おれは登らん』
「まだ登れるだろ。体は動く」
『六十キロは背負えん。それに、三十日かけて上がって、それからどうする』
「どうするって」
『上に、おれを待っとる人間はおらん。三十年前に死んだ母親だけだ。会いに行く先がない人間が、三十日壁を登るのは無理だ。百二十メートルで分かった』
マーロウは、灯台跡でシビルに言われたことを思い出した。
恐れだけで東へ行った者は、全員途中で引き返しています。行くなら、怖いから行くのではなく、何かをしに行ってください。そのほうが足が保ちます。
あの獅子は、たぶんこれを知っていた。
*
出発は翌日と決めた。
その前に、やることが一つあった。
籠には、いつもどおり空のガラス筒が二本入って下りてきていた。割れたときの予備だ。
マーロウは一本に水を汲んで、籠に乗せた。三キロ。いつもどおりの重さだ。
一の箱には手をつけなかった。あれは三十本でちょうどだ。
もう一本が、手元に残った。
マーロウはそれを見て、少し考えてから、水を汲んだ。
栓をして、布を巻いて、荷の中のいちばん取り出しにくい場所に押し込んだ。登る分の三十本とは、別の場所にした。
『それも数に入れるのか』
「入れない」
『入れんのか』
「街に持って帰る。使い道が決まってる」
一は、その言い方で分かったらしい。分かった顔をして、何も言わなかった。
それから、思い出したように付け足した。
『言っておくが、三十日のどこかで、おまえはそれを開けたくなるぞ』
「開けない」
『開けたくなる、と言った。開けるとは言っとらん』
それから、筒に紙を巻きつけた。ロズリンが持たせてくれた紙だ。八キロの中に入れた。使い道は考えていなかった。
字はうまくない。ウィラに笑われる程度には書ける。
生きている。下に一人いた。九年生きている。
十四人は死んでいない。十三人は死んだ。並べてある。
籠では上がれない。別の道を登る。三十日かかる。
三十日たっても来なかったら、もう少し待て。
答えはまだ無い。上で言う。
それだけ書いて、鎖を三回引いた。
しばらくして、鎖が動きはじめた。籠が持ち上がって、暗がりへ消えた。
一が横で見ていた。
『おれが乗って引いた四百回は、一度も上がらんかった。物だけ乗せりゃ、この通りだ』
「三キロだからな」
『三キロだからだ』
*
朝がない場所で、朝と決めた時間に、マーロウは荷を背負った。
ガラスの筒が三十本で三十三キロ。ほかに灯り、油、紐、乾かした肉が少し。全部で四十キロ近い。
一が、扉の前で待っていた。
手に紙を持っている。古い紙だ。端が黒くなっている。
『一つ頼みがある』
「聞く」
『これを持っていけ』
渡された紙には、数字が並んでいた。七桁の数字が十三個。上の四桁が同じで、下の三桁だけが違う。
「あの十三人か」
『そうだ。名前はない。おれたちに名前は一つしかない。だから番号で書いた』
「これをどうしろって」
『誰かに書かせてくれ。帳面でも壁でもいい。十三人がいたことを、上のどこかに残してくれ』
マーロウは紙を受け取った。折って、上着の内側に入れた。
「書くやつなら心当たりがある。二人いる」
『二人もか』
「一人は職業だ。もう一人は、印のない粒が嫌いなやつだ」
一は、その言い方の意味を聞かなかった。
聞かずに、少しだけ笑った。九年ぶんの顔の筋肉が、うまく動かなかった。
*
一が、木箱をもう一つ足で押してきた。粒の入っているほうだ。
『持っていけ』
「売れないだろ、これは。印がない」
『売るなと言っとる。使え』
「使うって、灯りにか」
『それでもいい。だが、おまえには売れる相手が一人おるはずだ』
マーロウは、灯台跡の獅子を思い出した。
あの女は、話を買って売る商人だと自分で言った。牛を十一頭買った。印のない粒を一つ、ウィラから引き取った。印のない粒を持っていても困らない人間が、この世に一人だけいる。
「一つ確かめさせてくれ。これ、街の店で使えるか」
『使えん。出した日に捕まる』
「じゃあ、金じゃないな」
『金じゃない。取引の材料だ』
マーロウは箱の前にしゃがんだ。
数えた。数えながら、使い道を三つ並べた。
一つ、ヴェスタへの借り。三回縫ってもらって、三回とも払いきっていない。
二つ、帰りの路銀。銅貨は一枚も持っていない。四十二枚あった銅貨は、三十枚を借りの返済に、残りの十二枚を筒を隠す駄賃に、全部ヴェスタに渡した。
三つ目が、本当の理由だった。
ガスは、体の水を全部払うと言った。二人で一人だから安いと言った。
安くない。ほかに払えるものがあるなら、そっちで払わせる。
百まで数えて、手を止めた。
それ以上は入らなかった。革の小袋に入れて、帯の縫い目に押し込むと、それでいっぱいになる。走っても鳴らない量が、それくらいだった。
『百か。少ないな』
「多いと、使いたくなる」
『そうか』
「それに、走れなくなる」
一は箱の蓋を閉めて、暗がりへ戻した。
『残りはここにある。取りに来るなら、いつでもある』
「九年ここにいたやつが、いつでもあるって言うと重いな」
『重く言ったんだ』
*
マーロウは棒に足をかけた。
一本目。二本目。三本目。
五メートルほど登って、下を見た。
一が立っている。白い灯りを持って、こちらを照らしている。
「おい。忘れてた」
『なんだ』
「預かりものがある」
マーロウは上着の内側から、金属の名札を出した。ドラグに押しつけられたやつだ。下で会ったら返してやれ、と言われた。
下へ落とした。一が両手で受けた。
一は灯りに近づけて、刻んである字を読んだ。読むのに時間がかかった。
『…おれの名前だな』
「下の三桁が違う。三年前にここへ来た男のだ。上の帳面では、ここへ下りたことになってる」
『三年前? その番号の男は、ここへは来とらん。来た者は、全員ここに並んどる』
「なら、下りる前に、どこかへ連れていかれたんだ。三年たって、東から戻る船に乗って、街の上で死んだ。名札は、壁の隊長が死体から拾った」
一は名札を握った。握った手が、少しのあいだ動かなかった。
『十三人と並べておく』
「十三人には名札がないんだろ」
『無い。だから一枚あれば、そこが墓になる』
マーロウは上を向いた。
暗い。三千八百メートル先に穴の口がある。そこから先に、二日歩いた哨所があって、二十三日歩いた街があって、崩れた水道橋があって、その上に、夕方になると赤くなる場所がある。
四本目の棒に手をかけた。
第十五章 了
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