
第14章
底
男は、マーロウの顔をしていた。
五十くらいに見えた。髪が白い。痩せている。左の眉が真ん中で切れていて、顎の右側に細い傷が二本ある。鼻が少し曲がっている。
ただ、目つきが違った。この男の目は、動いていなかった。焦っていないし、驚いてもいない。
『七十二キロ』
それが第一声だった。
「は」
『七十二キロだ。籠の沈み方で分かる。おれのときは六十八キロだった。六十八キロな』
同じ数字を二度言った。九年ぶりに人と喋る人間の喋り方だった。
男は籠に近づいて、縁に手をかけた。手の甲に、深い切り傷が何本もあった。
『…で。下りてきた理由は』
「聞きたいことがある」
『聞きたいこと。ああ。うん』
男は、その言葉を口の中で二回転がした。
『まず飲め。ここは乾いとらん。ここだけは乾いとらんのだ。飲め』
*
男は自分を名前で呼ばなかった。
「名前は」
『あんたと同じだ。だから使わん。番号で呼べ』
「番号なんか知るか」
『下の三桁で足りる。おれは〇〇一だ。一でいい』
「一」
『最初に下りた。九年前だ』
マーロウは、ハーランの言葉を思い出した。私が主任になってから十四人だ。
「十四人下りたと聞いた」
『十四人下りた。おれを入れてな。おれは、今の主任が来るひと月前に下りた』
「残りの十三人は」
一は、灯りを持ち上げた。
白い光が、床の奥へ伸びた。
床の上に、人が並べてあった。
頭を同じ向きに揃えて、腕を体の横につけて、十三人。布がかけてある。顔にはかかっていない。
全部、同じ顔だった。
マーロウの顔だった。
年齢が違う。二十そこそこのものから、四十を超えたものまである。それだけが違って、あとは全部同じだった。
マーロウはその場に座り込んだ。膝が抜けた。
『吐くなら向こうでやれ。ここは水が近い』
「…よく平気だな、あんた」
『平気なわけがあるか』
一は、そこで声を荒らげかけて、途中でやめた。やめ方が下手だった。
『九年見とる。九年見たら、吐かんようになるというだけだ』
*
一は、床に腰を下ろした。
『順番に話す。おれも上で聞きたかったことだ』
「頼む」
『まず、おれたちは生まれてない。作られてる』
「作られてるって、どうやって」
『知らん。作られる場所は東の先だ。孤独の大地という名前が付いてる。おれはそこから歩いて街に着いた。着いた日のことは覚えてない。気がついたら街にいて、名前と番号と、母親の記憶があった』
「母親がいた。おれには」
『おれにもいた。死んだのも覚えてる。三十年前の冬だ』
「…おれの母親が死んだのは、六年前の夏だ」
『だろうな。中身が違う。顔と番号と、腕の数字だけが同じだ』
一は自分の左肘を見せた。皮膚の下に、七桁の数字が入っている。
『次だ。なぜおれたちが下ろされるか』
「管を直すためじゃないのか」
『管は直す。それは本当だ。だが管を直すだけなら、坑夫を下ろせばいい。坑夫のほうが上手い。わざわざ半年に一度、同じ顔の男を取り寄せる理由にはならん』
一は、床の先を指した。
そちらの床は、途中から下がっていた。傾いて、暗がりへ落ちている。その暗がりが、光を返していた。
水面だった。
「…海か」
『海だ。もう掘り抜いてる。九年前にな』
「上は、あと三百二十メートルあると思ってるぞ」
『そう報告してあるからな』
*
一は立ち上がって、水際まで歩いた。マーロウもついていった。
暗い水が、ゆっくり動いていた。波はない。ただ、呼吸するように上下している。
『手を入れてみろ』
「触るなって教わってきた。生まれてからずっとだ」
『おれもだ。九年前に入れた』
マーロウは手を入れた。
冷たさは感じない。濡れているのは分かる。
そして、手を入れたところの水が、黒くなった。
指の周りの水が、色を決めかねているような色になって、それから粒になって、沈んだ。
マーロウは手を引いた。手のひらに、小さな傷があった。籠の縁で切ったものだ。
血が、水に触れていた。
『それだ』
「これが」
『おれたちの血が海水に触れると、海水が粒になる。牛も羊も要らん。変換器も要らん。手を入れるだけだ』
マーロウは、ニムの店の奥にある機械を思い出した。樽ほどの大きさの鉄の箱で、街に二台しかない。二台とも帝国のものだ。
あれに牛を一頭入れて、粒が一つ出てくる。
目の前の男は、手を水に入れて、同じことをした。
「井戸の水は変わらないだろ。なんで海は変わるんだ」
『生き物を通った水だからだ』
「通った」
『この下には、目に見えんものが山ほど生きとる。生きて、死んで、溶ける。それを何百年も繰り返した水だ。牛の体の中の水と、根っこは同じものだ』
「井戸の水は」
『何も通っとらん。だから何をしても変わらん。塩を混ぜても駄目だ。塩なら外に幾らでも転がっとるのに、誰も粒を作れんだろう』
マーロウは、そのとおりだと思った。
禁止区の地面は白い。乾いた窪地も白い。あれが全部使えるなら、拾い屋などとっくに廃業している。
「じゃあ、海に変換器を突っ込めばいいだろ」
『やったらしい。入らんそうだ。あれは生き物を一匹入れて、その一匹の血で、その一匹の水を変える箱だ。海は一匹じゃない』
「血が足りないってことか」
『そうだ。ふつうの血は一度で使い切られる。牛一頭の血で変えられるのは、牛一頭ぶんだけだ』
一は、もう一度手を水に入れた。手の周りが黒くなって、沈んだ。
『おれの血は使い切られん。九年やって、まだ減っとらん』
「じゃあ何だ。この海が全部か」
『全部だ。無くなるまで作れる。牛を殺さずにな』
「…冗談だろ」
『冗談を言う相手が、九年おらんかった』
マーロウは、その意味をゆっくり並べた。
牛一頭で粒が一つ。粒一つで灯りが十年。街の人間は、その勘定で三百年やってきた。
目の前の海が全部粒になったら、何年ぶんになるのか。
計算しようとして、やめた。乾いた窪地の縁でやめたのと、同じところでやめた。
一は、手のひらで水をすくって、地面に落とした。
『上の海は、そうやって無くなった。おまえが見てきた乾いた窪地な。あれは三百年前まで海だった』
*
マーロウは、そこで引っかかった。
「待てよ。それなら、おれがここにいる必要はないだろ」
『ほう』
「水を瓶に汲んで上げるだけなら、誰でもできる。おれの血が要るのは、粒にするときだけだ。だったら上で粒にすればいい。上におれたちを一人置いときゃ済む話じゃないか」
一は、初めて笑った。笑いかけて、途中でやめた。
『そこに気づくのに、おれは四年かかった』
「じゃあ答えを言え」
『水が上がってくるからだ』
一は、足元の床を指した。
よく見ると、床には筋がついていた。白い筋が、水際から一定の高さまで何本も引いてある。塩が乾いてできた線だ。
『掘り抜いた日から、水は上がってくる。下に海があって、上に穴が開いとるんだ。当たり前だろう』
「放っておいたらどうなる」
『穴が下から埋まる。三千八百メートルぜんぶだ。六十年ぶんの穴が、水で埋まる』
「汲み上げりゃいい」
『三千八百メートルをか。鎖の先に籠を一つ下げるのに、牛を四頭使っとるんだぞ』
「栓をすれば」
『何度もやったらしい。岩が動く。動いたら管が折れる。折れたら六十年が終わる』
一は水際まで歩いて、手を入れた。
手の周りの水が黒くなって、粒になって、沈んだ。水面が、目で追えるかどうかという幅で下がった。
『一回で桶一杯ぶんだ』
「桶一杯」
『それ以上は広がらん。血ひとしずくで届く範囲が、だいたいそれくらいだ』
一は手を出して、また入れた。出して、また入れた。同じ動作だった。
『毎朝、二時間やる。だいたい百回だ。それで水位が動かん』
「二時間」
『三日休むと、そこの床まで来る』
一が指したのは、二人が立っている金属の床だった。今いる場所から、水際まで十歩ほどしかない。
マーロウは、その光景をしばらく見ていた。
人ひとりが、毎朝二時間、桶一杯ずつ水を消す。それだけで、三千八百メートルの穴が埋まらずに済んでいる。
「それが潜りの仕事か」
『それが潜りの仕事だ。管を直すのはついでだ』
マーロウは、もう一つ引っかかっていたことを訊いた。
「上に送るやつだ。なんで水なんだ」
『どういう意味だ』
「あんたなら粒が作れる。三キロぶん粒を詰めて上げたほうが、よっぽど値打ちがあるだろ。なんで水のまま上げる」
一は立ち上がって、暗がりから木の箱をもう一つ引きずってきた。
蓋を開けた。
中に、黒い粒が入っていた。
敷き詰めてある。底が見えない。
マーロウは、その箱を見たまま動けなかった。
拾い屋が一年働いても、手にできる粒はせいぜい一つか二つだ。
目の前の箱には、数えられない数が入っていた。
「…九年ぶんか」
『九年ぶんじゃない。毎朝百個できるんだ。九年ぶん取っといたら、箱がいくつあっても足りん』
「じゃあ、あとは」
『海に捨てとる。作った端から沈むからな。拾うのをやめただけだ』
「これは」
『気が向いた日に拾った分だ。四年ぶんくらいか』
マーロウは、街の値段を思い出した。
牛一頭で一粒。その牛を育てるのに三年かかる。
「じゃあ、なんで水を上げてるんだ。これを上げりゃいいだろ」
『注文が水だからだ』
「注文を変えさせろよ」
『死んだ人間に、注文は出せん』
一は、壁の隙間に挟んであった紙を抜いて、マーロウに渡した。
古い紙だ。端が黒くなっている。判子が三つ押してあって、一行だけ書いてある。
三キロ、水。
『九年、これが下りてくる。中身が変わったことは一度もない』
「本部は気づいてるだろ。水が上がってきてるんだから」
『気づいとる奴はおるだろうな』
「じゃあ」
『書類を直すのは、その奴の仕事じゃない』
一は箱の蓋を閉めた。
『十四人ぶんの死亡報告が出とる。おれも、そのうちの一枚だ。あれを引っくり返す紙を書けば、書いたやつが十四人ぶんの嘘を背負う』
「誰も書かないな」
『九年、誰も書いとらん』
マーロウは、上げる水のほうをもう一度考えた。
「じゃあ、筒一本の水に何の値打ちがあるんだ」
『燃料じゃない。見本だ』
「見本」
『筒の金具に数字が打ってあっただろう。深さだ。どこから汲んだかを書いてある。向こうは海を測っとるんだ。何年も、三か月に一度ずつな』
マーロウは、灯台跡でシビルが読み上げた数字を思い出した。
四千百二十。
あれは値札ではなかった。目盛りだった。
「粒を上げさせない理由は、注文のほかにもあるのか」
『はっきりとは知らん。ただ、見当はついとる。おれが作った粒には印がない』
「印」
『変換器が打つやつだ。何を消したか書いてある。街で使うには要るんだろう』
マーロウは、ウィラの腰の袋を思い出した。
印のない粒を一つ、あの子は持っていた。売ろうとしたら、売る前に面倒なことになる種類のものだ。
「印のない粒が街に出回ったらどうなる」
『どうなると思う』
「…誰も牛を売らなくなる」
『そういうことだろうな』
マーロウは、そこまで言ってから、逆を考えた。
「待てよ。じゃあ帝国は損してるだけじゃないか」
『どうしてだ』
「あんたが触れば粒はいくらでも出る。帝国はそれを配ればいい。それだけで世界一の金持ちだろ」
『配ったら紙くずだ』
一は、床に落ちていた粒を一つ拾って、指で転がした。
『粒が値打ちを持っとるのは、牛を殺さんと手に入らんからだ。ただで出てくると分かった日に、誰も粒で物を売らん。おまえの銅貨のほうが価値が出る』
「意味ないだろ、それじゃ。作っても」
『売らなきゃいい』
「売らない金に、何の意味があるんだよ」
『金だと思うから分からんのだ』
一は粒を床に置いた。
『燃やすぶんには、印は要らん。灯りも、機械も、印を見て動いとるわけじゃない。印のない粒でも同じように動く。おれの灯りがそうだ。九年点いとる』
マーロウは、その灯りを見た。
白い光だ。油ではない。九年、一度も消えていない。
「…自分で使う分には、値段は動かないってことか」
『動かん。売らなきゃ何も起きん。街の連中は牛を売り続けて、帝国はただで手に入れた粒を自分の機械に入れる。それだけの話だ』
「…ずるいな」
『ずるいなあ』
一は、そこで笑った。笑い方を忘れている笑い方だった。
マーロウは、この一か月で見たものを並べた。
空を飛んでいた輸送船。中で喋っていた機械の声。哨所の白い灯り。三十メートルの鉄の塔。六十年動いている掘削機。
街では、水道塔の灯り一つを十年保たせるために牛を一頭殺す。
帝国の持ち物は、一つも牛を殺していないのかもしれない。
「じゃあ、帝国の粒はどこから来てる」
『ここじゃない』
「ここは」
『ここは何も産まん。穴が開いとるだけだ。産んどるのは、どこか別のところだ』
一は、東のほうを指した。
指した先は壁で、その先に何があるのかは、ここからでは分からない。
『おれを作った場所が、どこかにある。そこには、おれみたいなのが何人おるか分からん』
「何人いれば足りるんだ。あの船とか、哨所の灯りとか、全部動かすのに」
『桶があればいい』
「桶」
『海のそばに桶を並べる。汲んで、手を入れて、粒を拾って、また汲む。それだけだ』
「一人で何個だ」
『おれが毎朝二時間で百個だ。一日やれば四百はいく。十人おれば四千だ』
マーロウは、それを聞いて、しばらく何も言えなかった。
牛四千頭ぶんが、一日で出る。街の市場に牛は、全部で二百頭もいない。
「…海のそばに桶を並べればいいだけじゃないか」
『そうだ。たぶん、もうどこかで並べとる』
「壁の向こうでか」
『壁は、おれたち以外を近づけんためのもんだ。壁を建てた側は、いつでも入れる』
一は水際から離れて、床に腰を下ろした。
『帝国が怖がっとるのは、粒が余ることじゃない。おれたちが外に出ることだ』
「おれ一人逃げたところで何ができる」
『桶と、海に近づける場所があればいい。それとおまえが一人だ』
「売らずに、自分で使う」
『そうだ。帝国と同じことを、帝国以外の誰かがやれるようになる。壁の外に住んどる連中が、自分の灯りを持つ』
マーロウは、鉄の箱のことを考えた。
あの箱には自爆装置がついていた。中に入っていたのは、筒が一本だけだった。
一リットルほどの水だ。それ自体は、粒をいくつか作れるだけのものでしかない。
それでも、見られては困るものだった。
金具に打ってある数字が、海がもう一つあると言っていたからだ。
「上の連中は知ってるのか」
『掘削地の主任は知らんだろうな。あれは十五年後に水が出ると思っとる。知っとるのは、書類を本部へ直に送っとる連中だけだ』
「じゃあ、おれたちは」
『栓だ。生きた栓だ』
一は手を水から出して、服で拭いた。
『一人下ろせば、半年かそこらは保つ。保たなくなったら、また一人下ろす。十四人ぶん、それを続けてきた』
「保たなくなるって、どういう意味だ」
『死ぬという意味だ』
*
マーロウは、しばらく水を見ていた。
それから訊いた。
「なんで上がらなかった」
『上がろうとした。九年前に一度な』
「籠に乗ればいいだろ」
『乗った。鎖を三回引いた。上げろの合図だ。上がらなかった』
「壊れてたのか」
『壊れてない。四十三キロなら上がる。毎回上がってる』
一は、地面に転がっていた金属の筒を拾った。ガラスの筒が入る大きさの、外側の筒だった。
『三キロだ。水を入れて三キロ。それを籠に乗せて鎖を引くと、上がる』
『人が乗って引くと、上がらない』
「試したのか。何回」
『九年で、たぶん四百回だ』
*
一は、筒を床に置いた。
『ここまでが、おれが九年で分かったことだ。次はおまえの番だ』
「おれの番って」
『一つ訊く。上に、おまえを待ってる人間はいるか』
マーロウは、すぐには答えなかった。
答えなかった理由は、答えが出なかったからではない。出たからだ。
「いる」
『何人だ』
「一人だ。十五の女の子だ」
一は、初めて姿勢を変えた。座り直して、両手を膝に置いた。
『十三人に同じことを訊いた。全員いないと答えた』
「そうか」
『おれもいなかった』
一はそこで黙った。長く黙った。
それから、白い灯りを手に取って、立ち上がった。
『上がる方法が一つある。九年かけて見つけた。使ったことはない』
「使わなかったのか」
『使う理由がなかった』
一は、暗がりのほうへ歩きはじめた。
『来い。安くはない。先に言っておく』
第十四章 了
── 第14章 おわり ──