
第9章
乾いた海
通算十二日目から十六日目まで、何も起きなかった。
牛が十頭に減ったので進みが遅い。一日に進む距離は、当初の三分の二になった。荷役の仕事は、荷を縛り直すことと、車輪に油を差すことと、牛の脚を見ることだ。マーロウは一日に六回やった。ウィラは四回で音を上げた。
五日のあいだで変わったことが一つある。ウィラが毎晩、火のそばで字を書くようになった。
*
『違います。それは「ぬ」ではありません』
「じゃあ何なのこれ」
『何でもありません。そういう字はありません』
「えぇー! だってニムの帳面、こう書いてあったもん!」
『ニムという方の字が間違っています』
ウィラは口を尖らせた。ロズリンは筆を取って、自分で一度書いてみせた。
『輪を先に閉じます。閉じてから下ろす』
「輪を先」
『はい。下ろしてから閉じると、そういう形になります』
ウィラは三回続けて書いた。四回目で顔を上げた。
「これは?」
『それは「ぬ」です』
「やったぁ!」
ウィラは立ち上がって、火のまわりを一周した。護衛が二人、何事かという顔で見た。
マーロウは荷車の陰で、それを見ていた。
ウィラは四年前、牛の帳面を読むために一年かけて字を覚えた。読むだけだ。書くほうを教えた人間は、今までいなかった。
ロズリンが戻ってきて、横に座った。
『あの子は速いです。二晩で四十字覚えました』
「今まで何人に教えた」
『二人です』
「じゃあ二人中一番か」
『一番は一番です』
*
通算十七日目の昼、地面が終わった。
正確には、下がりはじめた。赤い土の平らな面が、ゆるい坂になって、その先が見えない。
荷車を止めて、マーロウは縁まで歩いた。
縁の向こうは白かった。
深さは数百メートル。幅は、向こう岸が霞んで見えない。底まで全部が白くて、ところどころ、風で削れた筋が波の形に残っている。
塩の匂いがした。禁止区と同じ匂いが、この規模で来る。
そして、底に船があった。
見えるだけで二十三隻。横倒しのもの、船首を上に向けて刺さっているもの、骨組みだけのもの。いちばん大きいのは、あの街の市場がまるごと入る大きさだった。
『…海だったの、ここ』
「海だな。船がある」
『どこ行ったの、水』
「粒になったんだろ」
言ってから、マーロウは自分の言葉を聞き直した。
牛一頭で粒が一つ。羊二頭で粒が一つ。目の前の窪みが全部粒になったなら、それは何粒になるのか。
『ねぇ。それ、誰がやったの』
「そこまでは分からん。分かってるのは、ここに海があって、今は無いってことだけだ」
ロズリンが遅れて縁に着いて、板を落とした。拾わずに、しばらく立っていた。
『二百年前の記録に、東の窪地、と書いてあります』
「船のことは」
『書いていません。窪地、の三文字だけです』
「書いたやつは見たのか」
『見たはずです。見て、三文字で済ませたんです』
ロズリンは板を拾って、砂を払って、書きはじめた。手が止まらなかった。
*
ドラグは荷車を一時間止めさせた。
坂を下りて、白い底へ一人で歩いていった。小さくなって、いちばん近い船のところまで行って、しゃがんだ。戻ってくるのに四十分かかった。
「何を置いてきた」
『兄の名札だ』
「遺体はここにあるのか」
『無い。どこにあるかも分からん』
「じゃあなんでここに置く」
『ここまでは来たことが分かっている。ここから先は分からん。分かっている一番遠い場所に置いた』
ドラグは荷車の縄を締め直しながら言った。声はいつもと同じだった。
『帰りに寄る。そのときまだ置いてあれば、持って帰る』
*
道は窪地の底を突っ切らず、縁に沿って北へ回り込んでいた。底を行くより三日長い。誰も文句を言わなかった。
通算十八日目の朝、先頭の護衛が手を上げて、列が止まった。
縁から少し下がったところに、荷車が六台あった。
倒れていない。壊れていない。牛はいない。轅が地面に下ろしてあって、石できちんと支えてある。誰かが丁寧に停めた形だった。
ドラグが先に近づいた。マーロウも続いた。
荷は積んだままだった。樽も木箱も、縄で縛られたまま載っている。
ドラグが水樽の栓を抜いた。水が出た。手のひらに受けて、匂いを嗅いで、少し舐めた。
『腐っていない』
「一か月経ってるんだろ」
『そうだ。十八本のうち十七本が満杯だ』
ドラグはそこで、周りの護衛に聞こえる声で言った。
『はっきりさせておく。この隊は襲われていない。襲われたなら水が残らん。水吸いは真っ先に樽をやる』
『逃げたんでもない。この道で水を置いて逃げる人間はいない。置いた時点で死ぬ』
『つまり、全員が自分の意思でここを離れた。荷も水も要らないと判断してだ』
護衛の一人が、小さく何か言った。ドラグは無視した。
「オットとサムと同じだな」
『同じだ。連れていかれたんじゃない。歩いていった』
*
『ねぇ、これ』
ウィラが、四台目の荷車の横にしゃがんでいた。地面を指している。
足跡があった。
白い土は硬い。普通に歩いても跡は残らない。ただ、この一帯だけは表面に塩の膜があって、そこに靴の形が焼きついたように残っていた。
荷車から東へ向かって、まっすぐ伸びている。乱れていない。走った跡も、立ち止まった跡もない。二列に並んで、同じ歩幅で、東へ歩いている。
『先月の隊の人数を言います。護衛十二、御者六、荷役二、隊長一。合計二十一人』
「数えろ」
ロズリンが膝をついて、足跡を指で追いはじめた。マーロウは反対側から、ウィラは真ん中から数えた。
三人の数が合うまで、四回やり直した。
五十八組あった。
『二十一人が出発して、五十八人が東へ歩いています』
「途中で合流したんじゃないのか」
『合流したなら、別の方向から来た足跡があるはずです。ありません。西から来ているのは、先月の隊の分と、私たちの分だけです』
「じゃあ残りの三十七人はどこから来た」
『分かりません』
ドラグが横で言った。
『分かることだけ並べる。東に、人を集めている何かがいる。集められた人間は自分の足で歩く。集まる人数は、出発した人数より増える』
「増える理由は」
『分からん。だが増えている。三十七人ぶんだ』
ロズリンは一行だけ書いた。
『足跡、五十八組、東へ。以上です』
「それだけか」
『見たものしか書きません。三十七人がどこから来たかを書きはじめたら、この本は三百年ぶんの噂話になります』
ロズリンの手は震えていた。字は震えていなかった。
*
その晩、火のそばでウィラが眠らなかった。マーロウも眠らなかった。
眠くならないことに四日前から気づいている。それはまだ誰にも言っていない。
『ねぇ』
「寝ろ」
『さっき、数え間違えたかもって思って、もう一回行ってきた』
「一人でか」
『すぐそこじゃん』
ウィラは膝を抱えたまま、火を見ていた。
『五十八だった。何回やっても五十八』
「ならそれでいい」
『よくないよ。あのさ』
そこで黙った。言うか言うまいか迷っている顔だった。三年見てきたので分かる。
「言え」
『足跡の、いちばん小さいやつ。あたしの靴と同じ大きさだった』
マーロウは、その意味をすぐに理解した。
先月の隊の荷役は二人。ロズリンが読み上げた名簿では、二人とも成人の男だった。子供はいない。
それを言えば、ウィラは自分の足跡を数えられている気分になる。
「明日、ロズリンに名簿をもう一回見せてもらう」
『…うん』
「一人で行くな。次から」
『うん』
ウィラは火に枝を足した。足してから、小さい声で言った。
『マーロウ、眠くないでしょ』
「…眠くない」
『やっぱり』
「四日前からだ。言ってなかった」
『言ってよ、そういうのは』
「言ったら寝ないだろ、おまえが」
『寝ないよ。当たり前じゃん』
ウィラは膝を抱え直して、マーロウの肩に頭を預けた。
『起きてていいから。あたしが寝るまで、そこにいて』
マーロウはそこにいた。
第九章 了
── 第9章 おわり ──