
第8章
渇き
東へ半日歩くと、草がなくなった。一日歩くと、土が赤くなった。
二日目には、地面に何も生えていない代わりに、岩が生えているように見えはじめた。風で下だけ削られた岩が、細い脚で立っている。何千本もある。その間を荷車が縫って進む。
市場の年寄りが東の話をしない理由が、二日で分かった。話すことが何もない。
*
書記のロズリン・ヴェイクは、六台目の荷車の後ろを歩いていた。
護衛の上着を着ているが、丈が合っていない。袖を二重に折り返している。三十をいくつか過ぎたくらいの女で、背が低い。髪は短くて、後ろが不揃いだ。自分で切っているのがひと目で分かる。口が横に広くて、顔立ちは平凡だが、目だけがよく動く。硝子の眼鏡をかけている。この隊で硝子を持っているのは、たぶんこの女だけだ。
歩きながら書いている。板に紙を挟んで、左手で押さえて、右手で書く。指の第一関節まで黒い。
「あんたがドラグの言ってた書記か」
『ロズリン・ヴェイクです。名簿には積荷として載っています。紙と、墨と、私』
「積荷って」
『積荷です。そう書いてありました。文句を言う相手がいなかったので、そのままにしてあります』
「何を書いてる」
『あなたのことです』
「おれの」
『隠しても仕方がないので先に申し上げます。あなたが十一日目に変わるかどうか。変わるなら、どの順番で、どう変わるか。それを書きます』
「気分のいい仕事だな、おい」
『よくありません。ええ、よくありません』
ロズリンは眼鏡を押し上げた。押し上げる必要のない位置だった。
『ですが、三百年ぶん空いている欄があるんです。空欄です。誰も何も書いていない。あれを見ると私は眠れません。本当に眠れないんです。三日眠れなかったこともあります』
ロズリンは板を持ち上げて、マーロウのほうへ向けた。隠さなかった。
字はきれいに揃っていた。日付。天気。今日歩いた距離。マーロウが今日喋った言葉の数まで書いてある。
「喋った数まで数えてんのか、おまえ」
『はい。数えないと比べられませんので』
「何と比べるんだよ」
『昨日のあなたとです。今日は三十一回。昨日は四十四回。一昨日は五十二回でした』
「減ってるじゃねえか」
『減っています』
「おい」
『ただし、機嫌が悪いだけかもしれません。それは分かりません。ですから数だけ書いて、理由は書きません。理由を書きはじめると、記録が意見になりますので』
マーロウは、この女を好きになれそうにないと思った。
そのあと、もう一つ思った。理由を書かない人間は、たぶん信用できる。
*
水は一日に一人あたり二リットルと決まっていた。
樽が十八本。半分は牛が飲む。牛が倒れたら荷車が止まるので、牛が先だ。
樽は夜、車座の真ん中に集めて、火を焚いて、二人ずつ交代で見張る。荷ではなく水を見張る。
四日目の晩、マーロウはウィラと組になった。
『ねぇ。粒って、水に戻せないのかな』
「戻せない」
『やってみた人いないの?』
「三百年やってる。誰も戻せてない」
ウィラは火に枝を一本足した。
『変なの。牛一頭ぶんの水がそこにあるのに、飲めないんだよ』
「そこにはない。もう無いんだよ、この世に」
『でも、粒はあるじゃん』
「粒はある。水は無い」
『…あたし、それ、ずっと分かんないんだよね』
「おれも分からん」
『えっ。分かってて言ってたんじゃないの?』
「分かるかよ。ニムも分かってない。三百年誰も分かってない」
ウィラは笑った。火の向こうで、歯の欠けたところが見えた。
*
来たのは、その夜の遅くだった。
牛が先に気づいた。十二頭が同時に頭を上げて、同じ方向を向いた。
火の光が届く外側、二十メートルほどのところで、地面が動いていた。
低い。膝の高さもない。細長くて、体の長さは人の背丈くらいある。足が六本。目がない。顔にあたる場所に、穴が二つ開いている。
それが、数えられないほどいた。
『水吸いだ! 樽を囲め!』
護衛の一人が叫んだ。三日前に火を分けてもらった男だ。
兵士たちが動いた。銃は使わなかった。棒の先に鉄をつけた得物で地面を叩く。叩いて追い払う。
「ウィラ、荷車の上!」
『マーロウは!』
「上だ! いいから上がれ!」
水吸いは人を襲わなかった。避けもしなかった。樽へ一直線に進んで、人が立っていればその足の上を通った。
一匹がマーロウの靴を踏み越えた。重い。濡れた砂袋のようだった。
三本目の樽に七匹が取りついた。木が鳴って、割れた。中身が地面に落ちた。
落ちる前に、無くなっていた。
水は染みなかった。染みる前に七匹の体に吸われた。吸われたところから、水吸いの体が膨らんでいくのが見えた。
『四番が破られた!』
火を分けてくれた男が、樽の上に登って棒を振っていた。足を滑らせた。
落ちたところに、水吸いが九匹いた。
マーロウは走った。三歩で止まった。間に合わないと分かったからだ。
ドラグが横を走り抜けた。オークの走る速さを、マーロウは初めて見た。
ドラグは棒を使わず、両手で水吸いを掴んで投げた。三匹投げた。四匹目を掴んだところで、動きを止めた。
マーロウが追いつくと、ドラグは男を見下ろしていた。
男の体は、服の中で縮んでいた。
*
朝までに水吸いは引いた。
樽は十八本のうち五本を失った。牛は二頭が脚をやられて、その場で始末した。荷車は五台に減らして、荷を積み替えた。
死んだのは一人だった。テオ・ラント。母親がカルヴァにいる、とロズリンが言った。
「そんなもんまで調べてんのか」
『出発前に、全員分を写しました。十二人と、御者六人と、隊長と、荷役二人。二十一人分です』
「なんでだよ」
『死んだときに書けないと困るからです』
「…準備がいいな」
『いやな準備です。書き写しながら、この中の誰かの欄が埋まるんだろうな、と思っていました』
ロズリンは眼鏡を外して、目を押さえた。
『昨夜、あなたは三歩で止まりました。私は五歩走って止まりました。二歩多いだけで、同じところにいました』
「それも書くのか」
『書きません。これは記録ではありません』
*
旅の五日目、通算で十一日目の朝が来た。
マーロウは顔に何かが当たって目を覚ました。ウィラの指だった。
ウィラは、マーロウの顔の横に座っていた。膝を抱えて、目が赤くて、明らかに一睡もしていない。
『…起きた?』
マーロウは口を開いた。自分が何を言うのかを、自分でも待った。
「顔に指入れるな。鼻の穴に入ってたぞ、今」
ウィラの顔が、一度くしゃっとなった。それから、肩を思い切り殴られた。
『っ、ばかぁ! ばか! ばかばかばかぁ!』
「痛いっての」
『痛くないくせにぃ!』
そのとおりだった。痛くなかった。それでもウィラは殴り続けた。
五メートル離れたところで、ロズリンが書いていた。
「何を書いてる」
『十一日目、変化なし、と』
「それだけか」
『それだけで充分です。九人は全員、十一日目に変わりました。日付だけは九人とも書いてあるんです。あなたは変わりませんでした。三百年で初めての行です』
ロズリンは板を胸に抱えた。手が少し震えていた。
『これを書くために来ました。書けてよかった』
「喜ぶな。まだ何も解決してない」
『解決していません。ただ、あなたは九人と違います。それが分かっただけで、話が一つ進みました』
*
ウィラが水を汲みに行っている間に、マーロウは肩の布をほどいた。
ヴェスタの縫った糸が八針、そのまま入っている。抜くには早い。まだ十一日だ。
抜いてみた。
糸は抵抗なく出てきた。八本とも、皮に食い込んでいなかった。
糸の下に、傷がなかった。赤くもない。盛り上がってもいない。縫い目の跡が点になって八つ並んでいるだけだ。触ると、そこだけ皮膚が新しい。
三日で肋はくっつかん、とヴェスタは言った。
十一日で、八針の傷が跡形もなく消えることも、普通はない。
マーロウは抜いた糸を八本、手のひらに並べた。
変わらなかったのではない。九人とは違う変わり方をしている。
それをウィラに言うかどうか、決められなかった。
第八章 了
── 第8章 おわり ──