
第6章
黒の書
五日目の朝、マーロウは寒くなかった。
納屋には壁が三面しかない。北側は崩れたままで、朝はいつも歯が鳴る。六年そうだった。
その朝、歯は鳴らなかった。息は白かった。指先の色も白かった。寒いという感じだけが来なかった。
痛みが消えたのが二日目の夜。寒さが消えたのが五日目の朝。柱には爪で引いた線が三本ある。
*
ニムの店に寄ると、ウィラとガスが床に座り込んでいた。
ガスが左手に鉤を握っている。握れていない。三回落として、四回目でやっと持った。
「ほら見て! 持てた!」
『持てただけだろがよ。振らねえと意味がねえ』
「じゃあ振ってみせてよ」
ガスは振った。鉤は手から飛んで、樽に当たって、大きな音を立てた。
『わしの樽だぞそれはぁ!』
ニムが奥から怒鳴った。ウィラが笑い転げた。ガスは残った三本の指を見て、それから笑った。
マーロウは戸口に立って、しばらくそれを見ていた。入っていかなかった。入っていくと、この時間が終わる気がした。
*
背負い袋の底から灰色のコートを出したのは、その日の昼だった。
四日間、一度も広げていない。売る気がなかったからではない。広げると、あの顔を思い出すからだ。
広げてみると、布としては上等だった。目が詰んでいて、裏が二重。ボタンは骨。
そして、右の脇の下に、繕った跡があった。
マーロウは指で縫い目をたどった。たどって、止まった。
八針で、途中の二針だけ間隔が広い。糸の返しが左向き。端の始末が、布の裏へ折り込まずに切りっぱなしになっている。
自分の肩に入っている糸と、同じだった。
*
ヴェスタは、コートを机に置かれても顔色を変えなかった。
手に取って、脇の下を裏返して、しばらく見た。それから根を床に吐いた。
『わしの手だな』
「いつ縫った」
『覚えとらん』
「覚えてないで済むかよ、これは」
『済まんから、帳面を出すんだ』
ヴェスタは棚の下から、分厚い紙束を引っぱり出した。紐で綴じてあって、表紙が油で黒くなっている。
『わしは縫った物を全部書く。四十年書いとる。何を縫ったか、いくらもらったか、誰のものか』
指を舐めて、紙をめくりはじめた。めくる速さが、途中から遅くなった。
止まった。
『三年前の秋だ』
帳面をマーロウのほうへ回した。ヴェスタの字で、こう書いてあった。
灰の外套、脇下八針。銅貨四枚。
その隣の欄に、名前があった。
マーロウ・ケイン。
「おれは来てない」
『わしはこの字を書いた』
「来てないんだよ! 三年前の秋なら全部覚えてる。あの秋にウィラを拾ったんだ。忘れるわけがない」
声が大きくなった。自分でも驚いた。
ヴェスタは驚かなかった。白いほうの目でマーロウを見て、それから帳面を閉じた。
『わしも覚えとらん。書いた覚えが、これっぽっちもない』
「じゃあ誰が書いた」
『わしの字だ。わしの手だ。わしが書いた。書いたのに、覚えとらん』
ヴェスタは自分の手のひらを見て、机の上で軽く握った。
『四十年でこんなのは初めてだ。おまえの話が本当なら、二人とも同じ日のことを忘れとる』
*
店を出たところで、三人に囲まれた。
帝国の灰色の軍服だ。二人はオーク、一人は人間。三人とも銃を手に持っていた。
後ろの路地から、四人目が出てきた。ドラグ・モーテンセンだった。
『マーロウ・ケイン。そのコートを渡せ』
「これは拾い物だ」
『壁の向こうの拾い物だな。この街の買い取り所は四軒ある。四軒とも今朝回った。どこも買っていない』
「じゃあどうする。捕まえるのか」
『捕まえない。話をする。三十分で済む。来い』
*
連れていかれたのは、海壁の南の門詰所だった。
石造りの部屋で、窓が一つしかない。机と椅子と、壁いっぱいの棚。ドラグは兵士を外に出して、扉を閉めた。
棚のいちばん下から一冊を抜いた。他より厚くて、表紙が黒い。
『壁番が三百年つけている帳面だ。壁の向こうへ行って、生きて戻った者だけを書く』
机の上で開いた。分厚いのに、字のある頁は少ない。
『先に結論を言う。書いてあるのは九人だ。九人とも、戻った日から十一日目に人が変わった』
「変わったって、どう変わった」
『言葉が丁寧になる。痛みを感じなくなる。命令に逆らわなくなる。九人ぶん、全部同じ書き方だ』
マーロウは、灯台跡のオットを思い出した。丁寧に頭を下げる猫背の男。
「おれは今日で五日目だ」
『知っている。だから話している』
ドラグは九人目の頁を開いた。
ガリー・ノーツ。カルヴァ。帝国暦三〇七年。
今年は三四八年だ。四十一年前になる。
「その次は」
『ある』
ドラグは頁をめくった。
十人目の欄には字が書いてあって、上から線が引いてあった。一本ではない。何度も往復した線で、紙が薄くなっている。
それでも読めた。
帝国暦三四五年、秋。この街。マーロウ・ケイン。
三年前の秋だった。
「これもか」
『これもとは』
「今朝、縫い屋の帳面にも同じことが書いてあった。三年前の秋、おれの名前。縫った本人が覚えてない」
ドラグは、初めて手を止めた。
『それは大きい』
「大きいのか」
『帳面が二冊ある。別々の人間が、同じ年に、同じ名前を書いている。どちらも書いた本人に記憶がない。おまえ一人の記憶違いでは説明がつかん』
「じゃあ何なんだよ」
『分からん。分からんから、おれはおまえと話している』
*
ドラグは本を閉じて、椅子に座った。座るとマーロウと目の高さが同じになった。
『こちらの用件を言う。二日後、東の哨所へ荷が出る。月に一度だ。荷車が六台、護衛が十二人、片道十九日』
「おれに何の関係がある」
『人手が二人足りん。おまえを荷役として乗せる。条件はコートを置いていくことだ』
「それだけか」
『それだけだ』
「なんでおれを乗せる。理由を言え」
ドラグは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
『三年前、おれの兄が東へ行った。前任者だ。この部屋に座っていた』
「帰ってこなかったのか」
『荷は着いた。人が着かなかった。荷車も水も無事だったと報告にある』
「捜索は」
『出ていない。荷が着いたからだ。帝国は荷が着けば問題なしと書く』
ドラグは黒い本を指で叩いた。
『この本には日付と名前しか書いていない。九人がその後どうなったか、三百年、誰も書いていない。おれは兄がどうなったか知りたい。だから書ける人間を一人、東へ送る』
「書ける人間」
『書記を雇った。ロズリン・ヴェイクという女だ。同じ荷車で行く』
「おれは書かれる側か」
『そうだ。嫌なら断れ。断っても荷は出る』
マーロウは、十九日という数字を頭の中で並べた。
十一日目は、道の上で来る。
「一つ聞かせろ。おれが途中で変わったらどうする」
『縛る。縛って東まで運ぶ。戻し方があるとすれば東だと、おれも思っている』
「殺さないのか」
『殺したら書くことがなくなる』
*
納屋に戻ったのは、日が落ちてからだった。
ウィラが先にいた。北側の崩れた壁のところに座って、膝を抱えている。
『遅い』
「うるさい」
『どこ行ってたの』
「壁の詰所だ」
『えっ、捕まったの!?』
「捕まってない。取引してきた。二日後に東へ行く」
『ちょっと待って。待って待って待って。東って、誰も帰ってこないとこでしょ?』
「そうだ」
『なんで行くの』
マーロウは、崩れた壁に背中を預けた。
「おれはあと六日で、オットみたいになる」
『…そんなの、まだ分かんないじゃん』
「九人ぶん同じだった。全員十一日目だ。分かってる」
『だからって東に行っても、十一日目は道の上で来るんでしょ』
「来る」
『じゃあ意味ないじゃん!』
「意味がないかどうかは、行った人間がいないから誰も知らない」
ウィラは立ち上がった。立ち上がって、それ以上何も言わなかった。言葉が出てこないときのウィラを、マーロウは三年で二度しか見ていない。
崩れた壁の向こうで、街の灯りが順番に消えていった。
マーロウは柱に、四本目の線を引いた。
第六章 了
── 第6章 おわり ──