
第5章
灯台跡
四日目の夜、マーロウは三日ぶりに排水口の格子を抜けた。
ガスが先に行った。手が使えないので、体をねじるのに二倍かかった。
「痛むか」
『痛むに決まってんだろぉ。聞くなよそういうの』
マーロウは、その返事に少し安心した。安心した自分に腹が立った。
禁止区に出ると、夜の白い地面が昼より明るく見えた。月の光を塩が返している。
三日前に自分が走った線をたどると、血の落ちた場所がすぐ分かった。白い地面に黒い点が散らばっている。全部で二十粒ほど。
三日前には一粒しか見ていない。
『増えてんのか、これ』
「増えない。あのとき全部あったんだ。砂に埋まってただけで」
『じゃあ何でおまえの血からこんなに出るんだよ』
「それが分かったら灯台跡まで歩いてない」
粒の周りに足跡があった。一人分ではない。地面を掻いた跡もある。誰かが拾い集めようとして、途中でやめている。
『誰か来てんな、ここ』
「軍じゃない。軍なら全部持っていく」
マーロウは拾わなかった。拾う気にならなかった。
*
灯台跡は、そこから北へ三キロのところにある。
海壁が海側へ曲がっている場所で、岩が高くなっていて、その上に石の柱が立っている。上半分は無い。残っているのは高さ十メートルほどの筒だけだ。
根元に、灯りが三つ灯っていた。
その外側にオットとサムが立っていた。並んで、まっすぐ立っている。二人とも新しい服を着ていた。
ガスが足を速めた。マーロウは腕をつかんで止めた。
『放せ』
「まだだ。待て」
『放せっつってんだろぉ!』
「先に話をつける。順番を間違えると、二人とも返ってこないぞ」
ガスは止まった。止まったが、呼吸が荒くなっていた。
*
灯りの真ん中に、シビル・オーヴェインがいた。
体の下半分は獅子だった。伏せていても、背の高さがマーロウの胸まである。毛は灰白色で、月の下では骨の色に見えた。前足の爪が、岩の表面に浅い溝を四本つけている。
肩から上は女だった。銀に近い白い髪を、太い三つ編みにして片側に流している。顔は整っている。整いすぎている。左右が正確に同じで、人間の顔にある小さな崩れがどこにもない。見ていると落ち着かなくなる種類の美しさだった。
目は淡い金色で、白目がない。瞬きが遅い。
肩甲骨のあたりに、大きな傷跡が二つあった。何かが生えていて、根元から取られた跡だった。
マーロウは、この相手から目を離すのが難しいことに気づいた。そして、それが気に入らなかった。
『二人までとお伝えしたはずです』
声は低く、ゆっくりしていた。怒ってはいない。
「二人だ」
『三人います』
岩の陰から、ウィラが出てきた。
「帰れ。今すぐだ」
『やだ』
「ウィラ」
『…帰り道、分かんないもん』
「この街の道はおれより知ってるだろうが、おまえは」
『今日は忘れたの』
シビルは怒らなかった。
『構いません。人数を決めたのは、話が長くなるのを避けたかっただけです。三人でも進めましょう』
「最初からそう言えよ」
『言えばよかったですね。私は言葉を惜しむ癖があります。直します』
*
シビルは前足を組み直した。
『では、順番に話します。まず私が何者か。次に私が欲しいもの。次にその理由。最後にあなたが欲しいもの。それでよろしいですか』
「ああ」
『私は商人です。物も買いますが、主に話を買って売ります。この街から北へ六つの街まで、私に話を売る人間が四十人ほどいます。三日前の朝、船が落ちる前に買い値を出したのも私です』
「船が落ちる前だったな」
『はい。私は落ちると知っていました。知っていた理由は、あの船の積み荷の目録を三日前に買っていたからです。落ちる場所までは分かりませんでした。分かっていれば、拾い屋を雇う必要はありませんでした』
ガスが横で息を吐いた。
『次に、欲しいものです。鉄の箱の中にあるガラスの筒。中に水が入っています。あれをいただきたい』
「理由は」
『三つあります。隠さずに全部言います』
シビルは爪を一本ずつ立てて数えた。
『一つ。あれは帝国が三百年隠してきたことの証拠です。証拠を持っている者は、帝国と取引ができます』
『二つ。売れば私は一生遊んで暮らせます。私は金が好きです』
『三つ。私はあの水がどこから来たのかを知りたい。これがいちばん大きい理由です。私は知らないことがあると眠れない性質でして、この性質のせいで翼を失いました』
「翼を失った話は聞いてない」
『聞かれたら話します。今日は関係ありません』
*
マーロウは筒を出さなかった。出さないまま訊いた。
「帝国が隠してるってのは、何をだ」
『筒の金具に数字が刻んであります。読みましたか』
「読んだ。意味は分からん」
『上の四桁は深さです。四千百二十。単位はメートル。水を汲んだ深さを意味します』
シビルは、白い顔を海のほうへ向けた。
『壁の外の海は、いちばん深いところで二百メートルありません。四千メートルの水など、この海のどこを探してもありません』
「じゃあ、あの水はどこの水だ」
『別の海の水です。この世界には、もう一つ海があります。帝国はそれを三百年隠しています』
言い方が、あまりに普通だった。だから飲み込むのに少し時間がかかった。
「もう一つ、海がある」
『あります。場所も見当がついています。あの船は東から来ました。陸の上を五日かけて飛んできた形跡があります。東の果てに、孤独の大地と呼ばれている土地があります』
「聞いたことがない」
『名前を知っているのは、だいたい行った者です。そして行った者は、だいたい戻りません』
*
ガスが、それ以上待てずに前へ出た。
「おれの連れを返してくれ」
ガスが言った。マーロウは黙っていた。ここから先は、この男の取引だった。
オットとサムは、三歩離れたところに立ったままだった。名前を呼ばれても、こちらを見ない。
『先に、あの二人がどうなっているかを説明します。聞かずに取引するのは損です』
「いいから返せよ!」
『一分で終わります』
シビルは、オットのほうへ顔を向けた。
『あの二人は薬を飲んでいません。操られてもいません。頭の中身も、記憶も、体も、全部そのままです』
『失くなったのは一つだけです。自分が自分であるという感覚です』
ガスが口を開けた。何も出てこなかった。
『名前を呼ばれても、それが自分の名前だと感じない。妹の顔を見ても、自分の妹だと感じない。覚えてはいます。感じないだけです』
『そうなると、人は一番楽な生き方をします。誰かの言うことを聞くことです。判断しなくて済みますから』
「…治るのか」
『治ります。戻し方は分かっています』
「やってくれ」
『代価が要ります。金ではありません』
「何だ。言えよ」
シビルは、少しのあいだ黙った。それから、言葉を選ばずに言った。
『あなたの体の水を、全部です。人ひとりぶんの水で、二人分の感覚を戻せます。あなたは死にます。比喩ではありません。その場で死にます』
灯りの油が、ぱちりと鳴った。
『やる』
「ガス」
『二人で一人だぞ。安いだろがよ』
「安くない。全然安くない、そんなもんは」
『二十年一緒にいたんだよ。おまえにゃ分からねえ』
「分かるかよ。おれは三年しか誰かといたことがない」
言ってから、後ろにウィラがいることを思い出した。
『今夜はやりません』
「なんでだよ!」
『道具がここにありません。街の南に私の蔵があります。そこでやります。十日後に人をやりますので、気が変わっていなければ来てください』
「変わらねえよ」
『そうおっしゃる方の三人に二人は変わります。変わっても私は何も言いません。恥でもありません』
*
シビルは、次にウィラを見た。
『あなたに一つ、売ってほしいものがあります。腰の袋に入っている粒です』
ウィラの手が袋を押さえた。
「やだぁ」
『理由を言います。あの粒は、牛でも羊でもないものから出来ています。そういう粒を、私は今まで一度も見たことがありません。調べたいのです』
「それは分かったけど、やだ」
『あなたの理由も聞かせてください』
「印がないから」
ウィラは袋から粒を出して、掌に載せた。
「粒には、何を消したか書いてあるでしょ。牛一頭、羊二頭って。これには何にも書いてない。書いてないやつを人に渡したら、それが何だったのか、もう誰にも分かんなくなる」
『あなたは分かっていますね』
「…あたしは分かる。でもあたしが死んだら誰も分かんない」
シビルは、前足で平たい石の板を押し出した。板の上に細い鉄の筆が乗っている。
『では、こうしましょう。粒はいただきます。何から出来た粒なのか、この板に書いてください。板は私の帳面に綴じます。あなたが見たいと言えば、いつでも見せます』
「…書いていいの」
『あなたが書いてください。私が書くと、私の言葉になります』
ウィラは板の前に座って、しばらく考えてから、短く彫った。彫るのに時間がかかった。字を書くのが速いほうではない。
彫り終えると、粒を石の上に置いた。
マーロウは覗き込もうとした。ウィラが手で隠した。
『見ないで!』
「なんでだよ」
『恥ずかしいからぁ!』
シビルは板を引き寄せて、読んだ。読んで、何も言わなかった。
*
最後に、マーロウが訊いた。
「おれの番だ。おれが欲しいものを言う」
『どうぞ』
「壁の向こうから戻った人間は、十一日で変わるらしい。おれは今日で四日目だ。止め方を知ってるなら教えろ」
『知りません』
即答だった。
『はっきり言います。私は止め方を知りません。誤魔化すと後で恨まれるので、先に言っておきます』
「じゃあ誰が知ってる」
『知っている者がいるとすれば、東です。水を汲んだ場所です。四千メートルの深さまで人を下ろせる者が、人ひとりの中身をいじれないとは思えません』
「十一日だぞ。東まで何日かかる」
『片道十九日と聞いています』
「間に合わないじゃないか」
『間に合いません』
シビルは立ち上がった。立つと、思っていたよりずっと大きかった。
『それでも行く価値はあります。理由を言います。九人のうち、東へ向かった者は一人もいません。全員が街に残って、十一日目を迎えました。あなたが最初の一人になります』
「試すのか、おれで」
『試します。隠しません。私は知りたいだけの生き物です』
マーロウは、この獅子を殴りたくなった。殴っても腕が折れるだけだと分かっていた。
『一つだけ、ただで差し上げます』
「何だ」
『恐れだけで東へ行った者は、全員、途中で引き返しています。行くなら、怖いから行くのではなく、何かをしに行ってください。そのほうが足が保ちます。残りの七日で、あなたは何がしたいのですか』
肩甲骨の、何かを取られた跡が、灯りの中で一度だけ光った。
第五章 了
── 第5章 おわり ──