
第4章
十一日
ニムの店は、荒らされていなかった。
それが怖かった。
布が棚に戻っている。戻っているどころか、きれいに畳んである。マーロウはこの店に十年通っているが、布が畳んで置いてあるのを見たのは初めてだった。ニムは布を投げる。山にする。それでどこに何があるか把握している。
秤のおもりが、小さい順に一列に並んでいた。
帳面は閉じて、机の真ん中に、机の縁と平行に置いてあった。
「ニム」
返事がない。もう一度呼ぶと、樽の後ろからニムが出てきた。怪我はしていない。ただ、顔の緑が薄くなっていた。
『触っとらん』
「何が」
『何も触っとらん。一枚もだ。銅貨も粒も帳面も、全部そこにある。一枚もだぞ、一枚も』
「落ち着け、ニム」
『落ち着いとるわぁ!』
声が裏返っていた。ニムは自分でそれに気づいて、口を閉じて、七本ある指で机の縁を握った。
『…読んだだけだ。帳面を全部読んで、閉じて、置いて、それから片づけて出ていった。わしが見とる前でだぞ。片づけながら、済みませんとか言いおった。二回もだ。済みません、済みませんと』
「二人組か」
『四人だ』
マーロウは自分の手のひらが汗をかいているのに気づいた。
『それだけじゃないわ』
「まだあるのか」
『あいつらが出てって半時間で、今度はオークが来た。昨日の隊長だ。ドラグとかいう、天井に頭こすっとったやつ』
「何を聞かれた」
『布のことは一言も聞かん。灰色のコートを買い取ったか、それだけだ』
マーロウは、背負い袋の底にあるものを思い出した。剥いだまま、誰にも売っていない灰色のコート。
「何て答えた」
『買っとらんと答えたわ。嘘はついとらん。買っとらんからな』
ニムは机の縁と平行に置かれた帳面を、指先でわざと斜めにずらした。ずらしてから、少しだけ息が楽になった顔をした。
『なあマーロウ。わしは百六十年この商売をしとる。物を取りに来る連中なら何百と見た。あれは違う。あれは取りに来たんじゃない。数えに来たんだ』
「何を数える」
『それが分かっとったら、わしが指を震わせとるか』
*
ヴェスタの店に着いたのは、朝の鐘が四つ鳴った後だった。
マーロウは銅貨を三十枚、机に置いた。四十二枚のうちの三十枚だ。残りは十二枚。
ヴェスタはそれを見て、数えもしないで引き出しに入れた。
『足りん』
「知ってる」
『知っとって持ってきたのは、半年ぶりだな』
「話せ。昨日の続きを」
『座れ』
ガスは奥の寝台で眠っていた。縫った手は板に縛りつけてある。
ヴェスタは新しい根を口に入れて、噛みはじめた。布の山から一枚引き出して、膝に広げる。話しながら針を動かしはじめた。手元は見ていない。白いほうの目でマーロウを見ている。
『四十年前、わしは軍にいた。ここじゃない。南のカルヴァという港街だ』
「軍で何をしてた」
『縫っとった。今と同じだ』
「そこも壁があるのか」
『ある。こっちより低い。十五メートルくらいだな』
針が布を通る音が三回した。
『壁の向こうに落ちた兵隊がいた。訓練中の事故だ。名前はガリー。十九だった』
「落ちて、どうなった」
『どうにもならん。波打ち際まで転がって、水を頭からかぶって、それで生きて上がってきた。誰も撃たなかった。撃つ前に上がってきたからな』
「撃たなかったのか」
『撃てんよ。顔を知っとる。前の晩に一緒に飯を食っとる』
ヴェスタは針を止めて、床に根を吐いた。
『わしがそいつを縫った。肋が三本折れとった。痛がったよ。普通に痛がって、普通に泣いた。母親を呼んだ。十九だからな』
「それで」
『十一日だ』
ヴェスタは膝の布を見た。この日はじめて手元を見た。
『十一日目の朝に、ガリーはわしに、おはようございます、と言った。それまで一度もそんな喋り方をせんやつだ。前の日までは、婆さん起きろとしか言わん』
「何て呼ばれた」
『ハルム様だ』
店の中が静かになった。奥でガスが寝返りを打った。
『痛みが先に消える。それが最初だ。三日目か四日目に、肋が折れとるのに痛がらんようになった。わしは治ったんだと思った。治るわけがないんだ。三日で肋はくっつかん』
「そいつはどうなった」
『士官が荷馬車で連れていった。罰じゃない。丁重にだ。乗せるときに手を貸しとった』
「どこへだ」
『聞いとらん』
「聞かなかったのか」
『聞いた者が二人おった。翌週に別の隊へ移された。それで全員が察したわ』
ヴェスタはまた針を動かしはじめた。
『士官どうしが話しとるのを一度だけ聞いた。壁の向こうから戻った人間は、三百年で九人だとよ。ガリーで九人目だと』
マーロウは、昨日ドラグが言った数を思い出した。三百年で九件。九件とも後で面倒なことになった。
四十年前に九人目がいたのなら、今その数はいくつになっているのか。
『マーロウ』
「言うな」
『言うわ。おまえ、昨日の何時に向こうから戻った』
「昼前だ」
『じゃあ今日で二日目だ』
「だから何だってんだよ」
『何でもない。数えとけと言っとる』
*
ガスが目を覚ましたのは昼過ぎだった。
起きてすぐ、縛られた右手を持ち上げて、しばらく眺めていた。指が三本。親指と、人差し指と、小指。真ん中の二本がない。
『…これじゃ鉤が握れねえなぁ』
「左で覚えろ」
『二十年右でやってきたんだぞ』
「じゃあ二十年かけて覚えろ、左を」
『冷てえなぁおまえ。ほんとに冷てえわ』
ガスは笑った。笑ってから、痛そうな顔をした。痛そうな顔をしたことに、マーロウは少しほっとした。
それからガスは、寝台の上で座り直した。座り直すのに時間がかかった。
『なあマーロウ。連れは一人までって言ってたよな』
「言ってた」
『おれを連れてけ』
「連れていけるかよ、手が使えないやつを」
『使えなくていい。立ってるだけでいい。立つのはできる』
ガスは声を荒らげなかった。それが逆に困った。怒鳴られたほうが断りやすい。
『オットは十七のときから一緒だ。サムはな、あいつは妹がいる。うちの隣に住んでる。まだ十四だ。昨日の朝も、うちの前で鍋洗っとったよ。今ごろも兄貴の飯こさえて待っとるだろうよ。何が起きたかも知らねえで』
「連れ戻せるとは限らない」
『限らねえのは分かってる』
ガスは残った三本の指で、寝台の縁を握った。
『それでもよ…呼んだら振り向くかもしれねえだろ。昨日は振り向かなかった。でもあれは、おれの呼び方が悪かったのかもしれねえ。もっとちゃんと呼べば、もしかしたら』
「ガス」
『分かってる。分かってるから言うなよ…』
そんなわけがない、とマーロウは思った。思ったが、言わなかった。
『あの子を連れてくつもりか』
「連れていかない。ウィラはな」
『あの子はついてくるぞ』
「知ってる」
『知っとって連れてかねえって言うのは、嘘つきって言うんだよ』
*
夕方、マーロウは水道橋の上に登った。
ウィラが先にいた。橋の縁に足を出して座って、街を見下ろしている。この場所は、二人が三年前から使っている。理由は特にない。高くて、風が通って、誰も来ないというだけだ。
西の空が赤くなっていた。海壁の向こう側から光が来るので、この街の夕方は、壁の上の線だけが先に燃える。それを見るために登る人間は、街に何人かいる。
『今日きれいだね』
「きれいだな」
『…えっ。いま、きれいって言った?』
「言った」
『去年は赤いなとしか言わなかったよ。覚えてるもん。赤いな、って。それだけ』
「じゃあ進歩したんだろ、今年は」
ウィラは足をぶらぶらさせながら笑った。それから手を開いて、掌の上のものを見せた。
黒い粒が一つ。米の半分ほどの大きさ。
「持ってたのか、それ」
『拾っといた。床に置いてくのもどうかと思って』
「捨てろ」
『やだ』
「ウィラ」
『やだってばぁ。だってこれ、印がないんだよ』
ウィラは粒を指の先でつまんで、赤い空にかざした。
『牛のにも羊のにも、ちゃんと印あるでしょ。何を消したか書いてある。これには何にも書いてない』
「書く人間がいなかったからだ」
『そうだけどさぁ…』
ウィラは粒を握り直して、腰の布袋に戻した。戻してから、いつもより小さい声で言った。
『名前がないもの、あたし嫌いなんだよね』
マーロウは、その言葉に返す言葉を持っていなかった。三年間で三度目だった。
*
夜、寝床にしている納屋に戻って、マーロウは肩の布を巻き直した。
ゆうべ、オットとサムが帰ったあとで、ヴェスタが包帯をほどいて縫った。糸は八針。縫い目のまわりが赤く腫れている。血は止まっていた。
巻き直しながら、指が滑って、縫い目を強く押した。
押してから、手を止めた。
もう一度、今度はわざと押した。親指の腹を、縫い目の真ん中に、体重をかけて。
糸が皮を引っぱるのが見えた。腫れたところが白くなって、指を離すと色が戻った。
痛くなかった。
マーロウは、しばらくそのまま座っていた。
それから立ち上がって、納屋の柱に、爪で線を一本引いた。
二日目。
第四章 了
── 第4章 おわり ──