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挿絵

第3章

縫い屋

ガスの血は、思ったより静かに出ていた。

勢いよく噴くのは太い血管が切れたときで、そういうのは見ればすぐ分かる。これは違う。指の付け根からじわじわ出て、止まらない。止まらないほうが厄介だと、前に誰かが言っていた。

「立てるか、おまえ」

『立てるに決まってんだろぉ。誰に向かって言ってんだよ』

「じゃあ立ってみろ。一回でいい」

ガスは壁に手をついた。ついた手が滑った。座り直した。もう一度ついて、また滑った。

『…無理だわ。悪ぃ』

ウィラがランプを持ち上げて、ガスの手を照らした。見た瞬間に顔をそむけて、そむけたまま早口で言った。

『縫い屋んとこ行こ。ねぇ、行こって。ヴェスタんとこ』

「行かない。あそこにはな」

『なんでぇ!』

「理由がある。行かない理由が」

『言ってよぉ。言わないと納得しないからね、あたし』

「借りてんだよ、金を」

『は? いま? 人が死にかけてんのに金の話してんの?』

「三回分な」

『三回も借りっぱなしなの!? そっちのほうがやばいじゃん!』

マーロウはガスの脇の下に肩を入れた。持ち上げると、思っていた三倍重かった。

*

夜市はまだ半分開いていた。

昼の騒ぎのせいで店の数は少ない。それでも油の匂いがして、焼いた粉の匂いがして、灯りの下に蛾が集まっていた。何十匹もいて、明かりの形が丸くぼやけている。ウィラが歩きながらそれをずっと見ていた。

『ねぇ、なんで蛾って火に行くんだろうね』

「知らん」

『熱いのにさぁ』

「知らんって言ってんだろ、さっきから」

『マーロウって知らないことばっかりだよね』

「拾い屋だからな。知ってたら別の商売してる、とっくに」

肩の上でガスが呻いた。

『おい。蛾の話してる場合かよ。おれ死ぬぞ』

「死なないよぉ。死ぬ人はそんな大きい声出ないもん」

『お嬢ちゃん、見た目より冷てえなぁ…』

*

ヴェスタ・ハルムは縫い屋だ。布も縫うし、人も縫う。どちらが本業なのか、本人は言わない。

六十近い。背はマーロウより高くて、肩幅も広い。灰色の髪を後ろで一つに縛っている。左目が白く濁っていて、見えていないほうの目で人を見る癖がある。慣れるまで落ち着かない。干した根をいつも噛んでいて、話の切れ目に床へ吐く。

マーロウはこの女に三回縫ってもらった。三回とも払いきっていない。だからこの半年、この通りを避けて遠回りしていた。

戸を蹴って入ると、ヴェスタは机の上の布から顔を上げた。上げただけで、驚かなかった。

『置け』

「金は」

『後』

「いくらだ」

『血を止めてからだ。順番も分からんのか、おまえは』

机の上の布を片腕で払い落として、そこにガスを寝かせた。ヴェスタは指の残った数を数えて、鼻から息を出した。

『二本な。切り口が綺麗だ』

「刃物か」

『違う』

「じゃあ何だ」

『知らん。綺麗だと言っただけだ』

それから針を三本並べて、少し迷って、いちばん太いのを取った。

『押さえてろ。暴れる』

「暴れねえよ。おれは餓鬼じゃねえんだ」

ガスは暴れた。

「いっ…いでででで! いでえ! いでえって!」

『動くな』

「動いてねえよぉ!」

『口は動いとる』

途中でウィラも押さえに加わった。それでも足りなくて、ヴェスタが膝でガスの胸を押さえた。

*

終わるまで一時間ほどかかった。

ウィラはその間に、どこからかパンを二個持ってきた。マーロウは出どころを聞かなかった。聞くと答えるので、聞かないほうがいい。

二人は店の外の段に座って食べた。パンは冷えていて、底のほうが焦げていた。

『ねぇ、この焦げたとこ、いる?』

「いる」

『えぇー。絶対いらないと思ったのにぃ』

「じゃあ聞くなよ、最初から」

『聞くでしょ普通。聞かないで食べたら怒るじゃん』

「怒らん」

『去年怒ったよ』

「…怒ったな。あれは怒った」

ウィラは結局、焦げた側を自分で食べた。

それからしばらく、どちらも喋らなかった。中からガスの呻き声と、ヴェスタが根を吐く音がした。

先に口を開いたのはマーロウだった。

「シビル・オーヴェイン」

ウィラはパンを噛むのをやめた。

『スフィンクスだよ』

「見たことあるのか」

『ないない。会ったことある人のほうが少ないでしょ、あんなの』

「じゃあ何で知ってる、名前を」

ウィラはパンの残りを両手で持ったまま、少しのあいだ黙った。それから、さっきまでの半分の声で言った。

『…うちの牛、買われたの』

「いつだ」

『四年前。全部で十一頭』

「粒にされたのか」

『たぶん。粒にするために買う人しか、あんな値段出さないって父さんが言ってたから』

パンの端を、指でちぎっては落としていた。食べてはいない。

『あたしね、全部に名前つけてたんだ。十一頭ぜんぶ。怒られたけどね。売り物に名前つけるなって、めちゃくちゃ怒られた。殴られはしなかったけど』

「やめたのか」

『やめない。隠れてつけた』

足元に落としたパンくずを、靴の先で砂に混ぜている。

『買いに来た人たちがね、帳面に書いてった。牛、十一頭。年、二から六。重さ。全部の欄があったよ。ちゃんと一頭ずつ』

ウィラは顔を上げた。

『名前の欄だけなかった』

「それで覚えたのか。シビルの名前を」

『帳面のいちばん上に書いてあったの。買い手の名前のとこ』

ウィラは少し笑った。前歯の欠けたところから息が漏れる、いつもの笑い方だった。

『あたしが字読めるようになったの、あの帳面のせいなんだよ。何が書いてあんのか知りたくてさ、一年かけて覚えた。一年だよ? ばかみたいでしょ』

マーロウは何か言おうとして、やめた。三年間で二度目だった。

*

戸が開いたのは、そのすぐ後だった。

男が二人、入ってきた。

片方は背が高くて猫背。片方は小柄で、頭に古い縫い跡がある。二人とも今朝ガスの後ろにいた男たちだった。路地でマーロウが膝を折った男と、銃を撃った男だ。

服が汚れていない。それが最初に目についた。夕方まで血と埃の中にいた人間の服ではない。

二人は店の真ん中で止まって、丁寧に頭を下げた。

『こんばんは』

机の上でガスが体を起こした。縫ったばかりの手を押さえたまま、二人を見た。

「…オット。サム」

二人はガスのほうを見なかった。見ていないのではない。視界には入っている。ただ、そこに誰かがいるという反応が起きていない。

「おい! こっち見ろやぁ! ガスだよ! 二十年だぞ、二十年! おんなじ釜の飯食っただろうがよぉ!」

返事はなかった。背の高いほうが、マーロウに向かって言った。

『夜分に失礼いたします』

「オットだったな。分かるか、おれが誰だか」

『はい。マーロウ・ケイン様です』

様、という言葉が、店の空気を変えた。

ヴェスタが針を置いた。置いただけで、動かなかった。ウィラが戸口とマーロウのあいだに入ろうとして、マーロウが腕で止めた。

「渡さない。箱はな」

『はい』

「はい、じゃない。渡さないって言ってんだよ、こっちは」

『承知しております。箱は本日の用件ではございません』

オットが一歩近づいた。マーロウは下がらなかった。下がると背中にウィラがいる。

『お手を拝借できますか』

「断る」

『お手を拝借できますか』

同じ言葉が、同じ速さで、同じ高さで出てきた。言い直しですらない。一度目とまったく同じものが、もう一度置かれただけだった。

ウィラが後ろで、小さく言った。

『やだ…これやだぁ…』

動いたのはサムのほうだった。

小柄なほうが、横から手首をつかんだ。力は強くない。ただ、手を離す気配もない。マーロウは肘で相手の顎を打った。骨が鳴った。サムの首が横を向いて、戻った。

戻って、また同じ力で手首を握っていた。

痛がらない。効いていないのではない。顎は明らかに折れていた。口の端から血が出ている。それでも顔の形が変わらない。

マーロウは二度目を打てなかった。打つ相手がいないような気がした。

オットが、マーロウの肩の包帯に親指を押しつけた。

血が親指についた。

それからオットは上着の内側から、指ほどの小さなガラス瓶を出して、栓を抜いた。中身を一滴だけ、自分の親指に落とした。

音はしなかった。光もしなかった。

親指の上から、血と水が消えた。

残ったのは、米の半分ほどの大きさの粒が一つ。透明でもないし黒くもない。見ているあいだ、色を決めかねているような色をしている。

オットはそれを目の高さまで持ち上げて、しばらく見ていた。

『確認いたしました』

「何をだ」

『あなたが、正しい方であることを』

サムの手が、マーロウの手首から離れた。

『三日後の夜、灯台跡へおいでください。お連れは一人までです』

「行かないと言ったら」

『三日後の夜、灯台跡へおいでください。お連れは一人までです』

二人は同じ深さで頭を下げて、出ていった。

ガスが机から降りようとして、床に落ちた。誰も間に合わなかった。落ちたまま、戸口に向かって怒鳴った。

『サム! 妹が飯作って待ってんだぞ! おい、サムぅ!』

足音は止まらなかった。

*

ヴェスタは針を持ったまま、戸口を見ていた。白いほうの目で見ていた。

『あの歩き方』

「知ってるのか」

『四十年前に一度見た』

「どこでだ。言え」

ヴェスタは根を床に吐いた。それから、床に転がったガスを見下ろして、長い息を吐いた。

『今夜は言わん。この馬鹿の手が先だ』

「明日なら話すのか」

『朝に来い。金を持ってな。手ぶらで来たら追い返す』

「話も聞かせずにか」

『わしは縫い屋だ。慈善屋じゃない』

*

外に出ると、夜市の灯りがまだ三つ四つ残っていた。蛾は減っていなかった。

ウィラが袖を引いた。

『連れは一人まで、って言ってたね』

「言ってた」

『あたし、行くからね』

「だめだ」

『じゃあ誰連れてくの。言ってみてよ』

マーロウは答えを持っていなかった。

第三章 了

── 第3章 おわり ──

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