オリジナルノベル
挿絵

第16章

ランプを持つ手

『十時ごろだよ! 伯爵さまの弟さんが、急に出ていったんだ。すぐ戻るって言って!』

ミセス・ドイルは、走ってきたせいで、まだ息が整っていなかった。

『そのあと、あたしが洗濯物を取り込んでる隙に、嬢ちゃんが。書き置きがあったんだよ、これ』

皺くちゃの紙切れだった。

「ママをむかえにいきます ぎんこうのまえでまってます フローラ」

オーガスタの指先から、血の気が引いた。

この子は、母親が危ないことをすると知っていた。だから、一時間だけ危ない場所の前で、待っていようとしたのだ。

「…ケイド警部」

『分かっています』

ケイドは、もう歩きだしていた。

『ロンバード街から、この時間に子ども一人で歩ける道は三本です。人を配ります。奥さん、あなたは私についてきてください。伯爵、あなたは馬車で表通りを』

そのとき、路地の入口で、誰かが叫んだ。

ネル・コッターの手下の一人だった。まだ十五、六の少年だ。荷車のあるほうを、何度も指さしていた。

*

裏通りの、荷積み場の陰だった。

古い荷車が一台。幌がかかっている。そういう荷車を、オーガスタは知っていた。夜に、救貧院と病院のあいだを行き来する車だ。

その車輪の横に、ペンローズが倒れていた。

仰向けで、両手で腹を押さえている。黒い上着の前が、てらてらと濡れていた。

その横に、フローラがいた。

膝をついて、両手でペンローズの手を握って、声も出さずに震えていた。

「フローラ!」

オーガスタは、娘を抱き寄せた。生きている。傷はない。それを確かめる三秒が、永遠のように長かった。

『…ママ』

「大丈夫。大丈夫よ」

『ペンローズさんが…わたしを、荷車に乗せようとした人を…』

「分かった。もう喋らないで」

オーガスタは、膝をついて、執事の上着を開いた。

左の脇腹の下。刃物の傷。横に広い。深い。

腹の中の出血だ。それも、速い。

ペンローズの薄い青の目が、こちらを見た。

『…お嬢様は』

「無事よ」

『それは、よろしゅうございました』

「喋らないで」

『申し訳ございません。荷車の男に、気づくのが遅れ…』

「ペンローズ。黙りなさい」

ルシアンが走ってきて、その場に膝をついた。

執事は、主人の顔を見て、いつもと同じ調子で言おうとした。

『旦那様。お見苦しいところを』

喋るな、とルシアンが言った。

オーガスタは顔を上げた。

「フィンチの店まで、二百歩。戸板を。そこの荷車の板を剥がして。四人で持ち上げて、走らないで。揺らしたら中で血が広がる」

*

フィンチ薬局の調剤台が、手術台になった。

瓶と乳鉢が床に払い落とされ、白い布が敷かれる。フィンチは、震える手で蝋燭を七本立てた。

「ランプを」

『はい』

フローラが、真鍮のランプを両手で持ち上げた。

血で汚れた手のまま、母親の横に立った。

「もう少し右。そう、そこ」

『動かないよ。わたし、動かない』

声が震えていた。それでも、光は一度も揺れなかった。

オーガスタは、上着の袖をまくった。

「ルシアン。両肩を押さえて。ネル、足。フィンチ、ローダナム。それから、お湯と、いちばん細い糸」

『麻酔は』

ルシアンが言った。

「ないわ。この国のどこにもないの」

ペンローズの口に、丸めた布が噛まされた。

オーガスタは、メスを取った。

「ペンローズ。今から、お腹を開くわ」

執事の目が、一度だけ、ゆっくり瞬いた。

それが、かしこまりました、と言ったように見えた。

傷を広げる。血が溢れる。溢れた血を、フィンチが布で押さえる。押さえても、また溢れる。

どこから出ているのか分からない。腹の中は、血で溺れている。

「布。もっと」

『もうないよ!』

「上着を裂いて。誰の上着でもいいわ」

ルシアンが、自分の上着を裂いた。マダムが持たせてくれた絹の裏地まで裂いた。

指を入れる。血の中を、手探りで進む。

目では見えない。見えなくても、体の中は分かる。五つのときから、父の仕事場で見てきた。肝臓の縁。その下に、太い管が走っている。

指先に、脈が触れた。

その横に、裂けた場所があった。

「あった」

糸を回す。血の中で、指の感覚だけで結ぶ。一回。二回。

溢れる速さが、落ちた。

「フローラ。光、そのまま」

『そのまま』

それから、三十分。裂けた腸の一か所を縫い、腹の中を温めた湯で洗い、傷を閉じた。

針を置いたとき、フィンチが崩れるように椅子に座り込んだ。

ペンローズは、生きていた。

息が浅い。顔は紙のように白い。それでも、胸が上下していた。

「今夜と、明日が山よ。熱が出たら、また来るわ」

フローラは、ランプを持ったまま、まだ立っていた。

オーガスタは、そっとランプを取り上げた。

それから、娘を抱きしめた。

『…ママ』

「よくやったわ」

『わたしのせいだ』

「あとにしなさい。今は、よくやった。それだけ」

その腕の中で、フローラがやっと声を上げて泣いた。

*

扉が開いたのは、そのときだった。

エドワード・ダーウェントが立っていた。

息を切らして、髪が乱れて、顔は紙より白かった。

台の上のペンローズを見て、血に染まった床を見て、母親に抱かれて泣いているフローラを見た。

そして、その場に膝から落ちた。

『…俺だ』

声が、掠れていた。

『俺が、やった』

ルシアンが、ゆっくりと振り向いた。

血のついた腕を下ろしたまま、弟を見ていた。

『去年の十一月だ』

エドワードは、床を見たまま喋りはじめた。

『賭けで、八千ポンド負けた。ホルブルックに借りて、返せなくなった。取り立ての男に言われたんだ。「兄上に何かあれば、全部片づく」って。俺は笑い飛ばした。笑い飛ばしたんだ、最初は』

誰も、何も言わなかった。

『十二月に、酒を飲んで、手紙を書いた。「相談したい」とだけ。宛先も知らない手紙だ。俺は、酔って書いて、そのまま忘れてた』

エドワードの肩が震えた。

『一月に、返事が来た。三百ギニーで承ります、と』

ルシアンは、動かなかった。

『そこで初めて、怖くなったんだ。取り消したいと書いた。返事は来ない。二月も、三月も。俺は、叔父上に打ち明けた。叔父上は、真っ青になって、全部自分が片をつけると言った。俺の手紙を取り返すって。あの舞踏会の夜、庭で受け取るはずだったのは、俺が書いた手紙だ』

彼は、初めて顔を上げた。

『叔父上は、俺のせいで死んだ。この人も』

台の上のペンローズを見て、それ以上は言葉にならなかった。

『兄上。俺を、警察に渡してくれ』

静かだった。蝋燭の芯が、ぱちりと鳴った。

「ルシアン」

ルシアンが、一歩、弟に近づいた。

オーガスタは、止めようとして、やめた。

ルシアンは、弟の襟をつかんで引き上げた。拳を振り上げた。

振り上げたまま、動かなかった。

それから、その手を下ろし、弟の頭を胸に押しつけて、抱えこんだ。

『…ばかが』

低い声だった。

『四つのときから、お前は、そうだ』

エドワードは、兄の上着を両手で掴んで、子どものように泣いた。

血の匂いの中で、二人の兄弟が抱き合っているのを、オーガスタは黙って見ていた。

その横で、フローラが、母親の手をずっと握っていた。

第十六章 了

── 第16章 おわり ──

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紳士の胃の病
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