オリジナルノベル
挿絵

第15章

三十九行

ホルブルック&サンズ銀行は、シティのロンバード街にあった。

表は大理石の柱。中に入ると、天井が高く、床は磨かれた石で、靴音がよく響く。行員たちは黒い上着を着て、誰も笑っていなかった。

水曜日の午前十一時。

サー・エドマンド・キャロウは、時間ちょうどに現れた。灰色の外套。手には何も持っていない。

『来ていただけましたか』

「お手紙をいただいたので」

『昨日のお返事は、嬉しく拝見しました。賢明な判断です』

キャロウは、心から嬉しそうに見えた。そこが、この男のいちばん恐ろしいところだった。

地下へ降りる階段は、狭くて冷たかった。

下りきったところに、鉄の扉が二枚。支店長と主任が、それぞれ一本ずつ鍵を持ってきて、同時に回す。

中は、石の部屋だった。壁一面に、番号を打った金属の引き出しが並んでいる。部屋の真ん中に、黒い布を敷いた台が一つ。

三十七番は、下から二段目にあった。

行員が引き出しを抜き、台の上に置く。中から出てきたのは、細長いブリキの箱だった。

行員が、台帳と羽根ペンを差し出し、署名を求めた。

キャロウが署名する。日付。それから、行員が二人、名前を書いた。

それから、奥様もどうぞ、と促した。

オーガスタは、ペンを取った。

指が震えないように、ゆっくり書いた。

オーガスタ・ヘイル。

これで、自分がこの部屋に、この日、この時刻にいたことが、銀行の帳面に残った。

それでいい。それが欲しかった。

『二人とも、外へ』

キャロウが行員に言った。行員たちは一礼して出ていき、鉄の扉が半分だけ閉まった。

箱の蓋が開いた。

中には、布に包まれた帳面が一冊。それと、紐で束ねた手紙の束。

『あなたは、これを一度見てしまう。そうしたら、もう戻れない』

キャロウは、帳面を台の上に広げた。

『それを承知で、見たいと言ったのですね』

「ええ」

『では、どうぞ』

一行目から、数字と名前が並んでいた。

夫の帳面とは比べものにならない。こちらは商売の記録だった。日付、家の名前、処置、金額、そして「依頼人」。

オーガスタは、頭の中で部屋をひとつ作った。

昔からのやり方だ。往診の記憶を、体の部位ごとに並べて置く癖があった。左の棚に名前、右の棚に日付、真ん中に金額。目で追いながら、順に置いていく。

一八三一年 サマーヴィル男爵 三百ギニー 依頼人 当主の甥

一八三三年 レディ・アークロイド 二百ギニー 依頼人 息子

一八三四年 ダーウェント伯爵 五百ギニー 依頼人 H・D

一八三五年 ヘンリー・ラスボーン 四百ギニー 依頼人 義理の弟

十四年分。三十九行。

息子。甥。娘婿。義理の弟。従兄弟。

被害者の家族が、一行ずつ並んでいた。

『驚きましたか』

キャロウが、静かに言った。

『世間は、私のような人間が悪だと思いたがる。ですが、私は一度も、誰かの家に押し入ったことはありません。いつも、向こうから来るのです。丁重な手紙でね』

「…だから、罪はないと?」

『罪はありますよ。私が引き受けているのは、その罪です。彼らは払い、私が背負う。だから高いのです』

オーガスタは、指先で頁をめくった。

一八三七年の行に、目が落ちた。

ヘイル ジョナサン 熱 処置済 百五十ギニー 依頼人 会の決定

夫の名前が、商品のように並んでいた。

百五十ギニー。

息が止まりそうになった。台の縁を握って、こらえた。

ここで泣いたら、全部終わる。フィンチも、ネルも、ケイドも、フローラも、全部終わる。

「…この行は、依頼人がいませんね」

声が、うまく出た。自分で驚いた。

『ええ。身内からの依頼ではありませんでしたのでね。あれは、掃除です』

キャロウは、頁をめくった。

そして、最後の頁を開いた。

一八四〇年四月二十五日 ダーウェント ホレス 二百ギニー 依頼人 会の決定

その次の行に、まだ乾いて間もないインクで、こう書いてあった。

一八四〇年 ダーウェント伯爵(当代) 相談中 三百ギニー 依頼人 E・D

オーガスタは、その四文字を二度読んだ。

E・D。

心臓が、一度だけ大きく打った。

エドワード・ダーウェント。

あの、トランプでわざと負ける青年。フローラを相棒と呼び、砂糖菓子の薔薇を十三個並べさせた男。

兄を殺す相談を、この男にしていた。

『ああ、それですか』

キャロウは、まるで天気の話をするように言った。

『若いご次男というのは、たいてい借金をお持ちでしてね。この銀行にも、ずいぶん借りておられる。兄上が死ねば、爵位と領地が転がり込む。よくある話です』

「…相談中、とありますが」

『向こうは、途中で怖くなったようです。取り消したいと言ってきた。叔父上を巻き込んで、書いたものを取り返そうともなさった』

キャロウは、束ねた手紙の紐に指をかけた。

『ですが、取り消しというものは、ないのですよ。一度こちらに手紙をくださったら、もう仲間です。叔父上は、それをご存じなかった』

オーガスタの頭の中で、いくつもの線が繋がった。

庭の東屋。取り返そうとした包み。刺された弟。死んだ叔父。

エドワードは、兄に隠していたのではない。自分のしたことを、隠していたのだ。

『この話、伯爵閣下はご存じない』

キャロウは、帳面を閉じた。

『ヘイル夫人。あなたはこれから、閣下の顔を見るたびに、これを思い出す。それが、こちら側に来るということです』

帳面が箱に戻り、箱が引き出しに戻り、鍵が回った。

階段を上がる足が、自分のものでないように感じた。

頭の中の棚は、いっぱいになっていた。三十九行。名前、日付、金額、依頼人。一つも落としていない。

落としていないことが、これほど重いとは思わなかった。

玄関の大理石の柱のところで、キャロウが立ち止まった。

『来月の初めに、契約の書類をお持ちします』

「…ええ」

『ところで、今日はお嬢さんはどちらに』

心臓が、喉まで上がった。

「友人のところです」

『それはよかった。ロンドンは、子どもには危ない街です』

キャロウは、帽子を軽く持ち上げた。

『先週、テムズから男が上がったのをご存じですか。うちの病院で、解剖の道具を運んでいた男でしてね。仕事の雑な男でした』

オーガスタは、答えなかった。

『雑な人間は、長く使えない。あなたは、そうでないといいのですが』

外に出ると、雨上がりの日差しが、目に痛いほど明るかった。

二軒先の珈琲店の扉が開き、ルシアンが出てきた。その後ろにケイド警部。

『どうだった』

「…全部、頭に入ってるわ」

『よくやった』

ルシアンが、歩き出そうとした。

「待って」

オーガスタは、その腕をつかんだ。

言わなければならなかった。今度こそ、黙っていてはいけなかった。

それなのに、言葉が喉で固まった。

この男の弟が、この男を殺すために三百ギニーの相談をした。今日、それを伝えれば、この人は二度目の家族を失う。

「ルシアン」

『言え』

オーガスタは、目を閉じて、開いた。

「帰ったら、エドワードと三人で話しましょう。三人よ。あの子も、逃げられないように」

ルシアンの顔から、笑みが消えた。弟の名を、低く繰り返した。

そのとき、通りの向こうから、誰かが走ってきた。

息を切らして、帽子を飛ばして、大家のミセス・ドイルが叫んでいた。

『ヘイル先生! 嬢ちゃんが! 嬢ちゃんが、いないんだよ!』

第十五章 了

── 第15章 おわり ──

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