
第17章
紳士の胃の病
治安判事の部屋に通されたのは、その日の夕方だった。
オーガスタのドレスの袖には、まだペンローズの血が乾いてこびりついていた。着替える時間はなかった。
判事は、六十くらいの、鼻の赤い男だった。書記が一人、机の端でペンを構えている。
判事は、これは何の話かとケイドに尋ねた。
『殺人です。十四年分の』
ケイドは、机の上に三つのものを並べた。
グレイブが残した届けの控え。夫の帳面。そして、ホルブルック&サンズ銀行の立会い台帳の写しだった。銀行が、日付と時刻と、立ち会った人間の名前を書き写して出したものだ。
『本日午前十一時、この婦人は、サー・エドマンド・キャロウの貸金庫の立会いに同席しました。銀行の記録に、双方の署名が残っています。この婦人は、そこで見たものを申し立てます』
判事は、老眼鏡をずらしてオーガスタを見た。
『…見たもの、とは』
「帳面です」
オーガスタは言った。
「一八二六年から今年まで、三十九行。日付、家の名前、金額、依頼人。順に申し上げます」
『覚えていると?』
「はい」
『全部を?』
「はい」
判事は、鼻で笑った。それから、書記に顎をしゃくった。
オーガスタは、目を閉じた。
頭の中の棚から、一行ずつ下ろしていく。
一八三一年、サマーヴィル男爵、三百ギニー、依頼人は当主の甥。
一八三三年、レディ・アークロイド、二百ギニー、依頼人は息子。
一八三四年、ダーウェント伯爵、五百ギニー、依頼人はH・D。
書記のペンが、追いつかなくなった。
「ゆっくり言います」
部屋の中で、ペンの音だけが続いた。
三十九行を言い終えるのに、二十分かかった。
言い終えたとき、判事の顔から笑いは消えていた。
消えていたが、次に出てきた言葉は、こうだった。
『…出せんな』
「え」
『令状は出せん、と言ったのだ』
判事は、老眼鏡を外して、目頭を揉んだ。
『考えてもみたまえ。ここに並んでいるのは、いずれも名のある家の名前だ。この紙をもとに令状を出せば、明日からロンドン中の墓を掘り返すことになる。爵位のある家が、十以上だぞ』
「人が、殺されているんです」
『証人は君一人だ。婦人の記憶だけで、サーの称号を持つ外科部長を引っ張れというのかね』
ケイドが一歩前に出て、控えと帳面があると言った。
『死んだ医者の書き物と、死んだ町医者の覚書だ。両方とも、本人に尋ねられん』
判事は、書類を机の向こうへ押し戻した。
『月曜まで待ちたまえ。私も考える』
月曜。五日後だった。
五日あれば、あの男は、帳面も、手紙も、ブリキの箱ごと海の底に沈められる。
オーガスタは、立ち上がった。
「分かりました」
『分かってくれたか』
「ええ。この国の法律は、五日後に起きるそうです」
*
ボンド街の店の奥で、印刷機が回りはじめたのは、夜十時だった。
マダム・ボーモンは、髪を布で包み、袖をまくり、インクで真っ黒になった手で活字を組んでいた。
『見出しは「紳士の胃の病」。副題に「十四年、三十九人」』
「家の名前は出さないで」
『なぜ』
「依頼したのは家族でも、殺されたのは、その家の人よ。名前を出したら、残された孫や娘まで一生、毒殺の家の子になる。あの子たちは何もしていない」
マダムの手が止まった。
『甘いね』
「甘いわ。でも、そこは譲らない」
『…いいわ。日付と金額と、あの男の名前だけ。それだけでも十分、火はつく』
「ありがとう」
エドワードは、部屋の隅に座っていた。
ずっと黙っていたが、そこで初めて口を開いた。
『俺の行も、載せてくれ』
ルシアンが、何か言いかけた。
『兄上。俺は明日の朝、自分でケイド警部のところへ行く。行ってから出るより、載ってから行くほうが、まだましだ』
「エドワード」
オーガスタは言った。
「あなたの行だけは、わたしが決める。今夜は載せない。あなたが自分で警部のところへ行って、自分の口で言いなさい。新聞に先に言わせたら、あなたは一生、新聞に言わされた男になるわ」
エドワードは、しばらく黙っていた。
それから、うなずいた。
『…分かった』
印刷機が、夜通し回った。
インクの匂いと、機械の軋む音の中で、オーガスタは床に座って眠った。
夢の中で、夫が蝋燭を持って立っていた。
*
五月十四日、木曜日の朝。
ロンドン中の街角で、新聞売りが同じ言葉を叫んでいた。紳士の胃の病、十四年、三十九人。
一ペニーの紙が、朝のうちに刷り増しになった。
クラブで、貴族たちが黙ってそれを読んだ。侍女たちが、洗濯場でそれを読み上げた。セント・ジョージ病院の学生が、講義の前に回し読みした。
ペンバートン邸では、レディ・ペンバートンが気を失い、孔雀の羽根を三本とも床に落とした。
朝の十時までに、ロンドンの空気が変わった。
誰も、はっきりとは口にしなかった。ただ、みんなが同じことを考えていた。
うちの祖父は、本当に胃の病だったのか。
グリーク街の家で、オーガスタは患者を診ていた。
仕事があるほうがいい。手を動かしていれば、判事のことも、五日という数字も、少しは考えずに済む。
フローラは、机で本を読んでいた。ミセス・ドイルがくれた、息子のお下がりの机だ。
十一時に、扉が叩かれた。
開けると、ケイド警部が立っていた。
後ろに、制服の巡査が二人。
『…奥さん』
ケイドの顔を見た瞬間に、分かった。
この人は、こんな顔で、一度も喋ったことがなかった。
『今朝、サー・エドマンド・キャロウが、治安判事のところへ告発状を出しました』
「わたしを?」
『無免許での医業。それと、詐称。一八三〇年から今年まで、亡くなったご主人の名前で手術を行った、と』
ケイドは、令状を取り出した。手の中で、紙が少し揺れていた。
『証人は、セント・ジョージ病院の学生が十一人。先日の切断手術で、あなたが縫合の場所を言い当てたのを見ています。それと、ダーウェント伯爵家の従僕が四人』
「…従僕」
『四月二十五日の夜、屋敷の地下で、あなたが人の体を切るのを見たと』
オーガスタは、目を閉じた。
あの晩、押さえていた四人。名前も知らない若者たちだ。金を渡されたのか、脅されたのか。たぶん、両方だろう。
『三十九人の殺しには令状が出ず、一人の女が人の命を救ったことには、半日で出ました』
ケイドの声が、低く震えた。
『こんな仕事は、十一年やって初めてです』
「あなたのせいじゃないわ」
『私が連れていきます。ほかの人間にやらせたくない』
部屋の奥で、椅子が倒れる音がした。
フローラが、立ち上がっていた。
『…どこに行くの』
オーガスタは、娘のほうを向いた。
言葉を選ぶ時間が、ほんの数秒だけあった。
「ちょっと、お役所に行ってくるの」
『帰ってくる?』
「たぶんね」
『たぶんじゃ、いや』
フローラは、机を回り込んで走ってきた。母親の腰に、正面からぶつかるように抱きついた。
『ちゃんと言って。約束したでしょ。行ってきます、って言って。帰ってくるって言って』
オーガスタは、膝を折った。
娘と同じ高さになって、両手で、その頬を包んだ。
血の匂いの染みついた手で、娘の顔に触れるのは、少し嫌だった。それでも、触れた。
「行ってきます」
『…行ってらっしゃい』
「帰ってくるわ。必ず」
フローラの目から、涙が一粒だけ落ちた。それから、この子は、涙を拭いて、背筋を伸ばした。
十三になった娘は、母親の手を離した。
『じゃあ、砂糖の薔薇、残しとくから』
オーガスタは、笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
表の通りに、馬車が待っていた。
そのすぐ後ろに、もう一台。
扉が開いて、ルシアン・ダーウェントが降りてきた。上着も帽子も、昨日の血のままだった。
「ルシアン」
止めても無駄ですよ、とケイドが言った。
『止めない』
ルシアンは、オーガスタの前に立った。
『私も行く。証人として、あの夜のことを全部話す。屋敷の台所で何があったか、誰が誰の命を救ったかをだ』
「…あなたが話したら、あなたの家が終わるわ」
『終わらせればいい』
ルシアンは、はっきりと言った。
『名前は、人を守るためにあるんだろう。守る相手を、今日は私が選ぶ』
第十七章 了
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