
第14章
正面から入る
月曜日の夜、グリーク街の狭い部屋に、六人が集まった。
椅子は三脚しかない。ルシアンは寝台の縁に座り、エドワードは床に胡坐をかいていた。ネル・コッターは壁にもたれ、マダム・ボーモンは唯一きれいな椅子を当然のように占領している。フィンチは、緊張しすぎて立ったままだった。
テーブルの上には、紙が三種類並べてある。
夫の帳面。グレイブが押しつけていった十四年分の届けの控え。それと、ネルが調べてきた銀行の手順書き。
「順番に確かめるわ」
オーガスタは、一枚目を指した。
「この帳面と控えには、名前と日付があるの。でも、お金がどこへ行ったかが書いてない。キャロウの名前が出てこないのよ」
『そこが要でしょうね』
マダムが扇で顎を叩いた。
『新聞屋の目で言わせてもらうとね、この二つだけで号を出したら、明日にはグレイブ一人が悪者になって終わり。死人に全部かぶせて、みんな安心して朝ごはんを食べるわ』
「そのとおりよ。だから、キャロウ自身の記録がいる」
『ホルブルックの三十七番だね』
ネルが言った。
『調べたよ。あそこの地下は、鉄の扉が二枚。鍵は支店長と主任が一本ずつ持ってて、二人揃わないと開かない。金庫の箱は、客の署名と行員二人の立会いが要る。夜に入るなら、屋根から水道の管を伝って…』
「やめて」
『まだ何も言ってないよ』
「言いかけたでしょう」
オーガスタは、ケイド警部の言葉を思い出していた。
盗んできた紙は使えません。
「盗んだら、負けなの。盗んだ紙は証拠にならない。裁判にもならない。わたしたちが泥棒になって終わりよ」
『じゃあ、どうすんだい』
「正面から入るわ」
部屋が、しんとなった。
『…正面?』
最初に口を開いたのは、エドワードだった。
「水曜の十一時。キャロウは自分の足で銀行に行って、自分の署名で、自分の箱を開ける。年に一度だけね。そのとき、あの人は必ず、中の帳面を台の上に広げる」
『そこに、あんたが立ってるっていうのかい』
ネルの声が裏返った。
「そう。立会人として」
『客の立会いは、行員二人と決まってるよ』
「行員二人と、客が連れてきた人間よ。十一年前、グレイブが一度呼ばれたって言っていたわ。あの人は、自分の仕事を誰かに見せたい人なの。見せて、共犯にして、縛る」
オーガスタは、キャロウの水差しの水と、爪の中の血を思い出した。
「わたしは、あの人の申し出を受けるふりをする。年に千ギニーの話を受けて、その代わり、あなたが何を持っているか見せてほしいと言うわ。手ぶらで信じろというのは公平じゃない、と」
『危険すぎる』
ルシアンが立ち上がった。
『あの男は、君が帳面を持っていることを知っている。君が寝返ると本気で信じると思うか』
「信じるわ」
オーガスタは、静かに言った。
「あの人は、人間は必ず金で動くと思ってる。娘のいる貧乏な女なら、なおさらね。自分がそう信じていることを、疑ったことのない人よ。そこが、あの人の唯一の弱いところ」
ルシアンは、何か言いかけて、やめた。
『続けろ』
「見たものを、全部覚えるわ」
『覚える?』
「名前と、日付と、金額。わたしは十年、一度も帳面をつけずに往診を回ってきたの。患者の名前、傷の場所、縫った針の数、薬の量。全部、頭に入れて帰ってきた。書いたらまずいものばかりだったから」
はじめて、マダムが扇を止めた。
「銀行を出たら、その足で治安判事のところへ行って、宣誓して申し立てるの。わたしが自分の目で見たものとして。目撃した人間の宣誓は証拠になるわ。盗んだ紙とは違う」
『それでも、あんたの言葉一つだよ』
「一つじゃないの」
オーガスタは、グレイブの書類挟みに手を置いた。
「死んだ医者が書いた十四年分の日付と、夫の帳面の金額と、わたしが見た帳面の数字。三つが合ったら、それはもう、一人の女のたわごとじゃないわ」
役割を決めるのに、一時間かかった。
ネルは、銀行の表の通りに人を出す。何かあったときに騒ぎを起こし、人だかりを作る役だ。
ネルは、人だかりはこの街でいちばん安い武器だ、十人も出せば足りると言った。
フィンチは、薬局で待機する。怪我が出たときのためだ。
『ぼ、僕は、役に立たないな』
「立つわ。誰かが怪我をしたときに、行ける場所があるっていうのは、それだけで違うの」
ルシアンとケイド警部は、銀行から二軒先の珈琲店にいる。オーガスタが出てくるのを待って、そのまま治安判事のところへ運ぶ。
マダムは、印刷機に版を組んでおく。宣誓が済んだその日の夕方に、号外を出す。
『見出しはもう決まってるわ。「紳士の胃の病」』
「…趣味が悪いわ」
エドワードは、何も割り当てられなかった。
『俺は?』
「あなたは家にいて。傷が開くわ」
『そんな役、嫌だね』
エドワードは、珍しくむきになった。
『相棒の母親が、一人で虎の穴に入るんだぜ。俺だけ寝台で紅茶か?』
「じゃあ、一つお願いするわ」
オーガスタは言った。
「水曜日、フローラをあなたが見ていて。ミセス・ドイルの部屋で、二人でトランプをしていて。あの子を、一歩も外に出さないで」
エドワードの顔が、少し動いた。
『…そんなの、誰でもできる』
「誰でもじゃないわ。あの子が言うことを聞く大人は、この世に三人しかいないの。わたしと、ペンローズと、あなたよ」
エドワードは、それ以上何も言わずにうなずいた。
そのとき、その頬が妙に白いことに、オーガスタは気づいた。傷のせいだろうと思った。
*
人が帰ったあと、ルシアンだけが残った。
暖炉もない部屋で、二人は並んで寝台の縁に座っていた。
『気に入らん』
「知ってるわ」
『私は、あの部屋の外で待っているだけだ』
「あなたが中に入ったら、あの人は警戒するわ」
『分かっている。分かっていることと、気に入ることは別だ』
ルシアンは、両手を組んで、床を見ていた。
『一つ約束しろ』
「何」
『危なくなったら、証拠は諦めろ。帳面も、数字も、全部捨てて出てこい』
「…考えておくわ」
『考えるな。約束しろ』
オーガスタは答えなかった。
代わりに、この男の肩に頭を預けた。
しばらくして、ルシアンが言った。
『君は、ずるい』
「知ってるわ」
奥の部屋の扉が、いつものように指一本分開いていた。
オーガスタが気づいて立ち上がると、フローラは慌てて寝台に戻るふりをした。
「盗み聞きは、もうやめなさい」
『だって、ママ、水曜日にどっか行くんでしょ』
「お仕事よ」
『危ないお仕事?』
オーガスタは、娘の隣に座った。
嘘をつくこともできた。この一週間で、自分がそれをどれだけ上手にできるか、知ってしまった。
「危ないわ」
『…どのくらい?』
「一時間だけ危ない。そのあとは、たぶん大丈夫」
フローラは、毛布の端を握っていた。
『パパも、そう言った?』
胸を、まっすぐに刺された気がした。
「…ううん。パパは、何も言わなかったわ」
『じゃあ、ママは言って。行ってきますって、ちゃんと言って。帰ってくるって言って』
「言うわ」
オーガスタは、娘の額に唇をつけた。
「水曜日の午後には帰る。そうしたら、残りの砂糖の薔薇を一緒に食べましょう」
『約束』
「約束」
第十四章 了
── 第14章 おわり ──