
第13章
砂糖の薔薇
土曜日は、朝から掃除だった。
グリーク街の家の床には、まだ小麦粉が薄く残っていた。裂かれた布団は捨てるしかなかった。倒れた棚を起こし、破れた本を積み上げる。
『あんたねぇ! こんなになるまで、なんであたしに言わないんだい!』
大家のミセス・ドイルが、腕まくりをして怒鳴り込んできた。怒鳴りながら、脇に古い毛布を二枚抱えていた。
「言ったら、追い出されると思ったのよ」
『追い出すもんかね。二か月分もらってんだから』
彼女は毛布を寝台に放り投げ、それからフローラの頭を乱暴に撫でた。
『嬢ちゃん、明日で十三かい。うちの息子のお下がりで悪いけど、机を一つやるよ。本読むのに、膝の上じゃ体を壊す』
昼を過ぎると、患者が来はじめた。
この界隈の人間は、噂が早い。ヘイル先生が戻ってきたと、半日で広まったらしい。
指を切った荷運び。子どもの耳だれ。膿んだ歯。腫れた足。
治療代は、一人三ペンス。払えない者からは取らない。その代わり、卵をもらったり、靴を直してもらったりする。
ダーウェント邸の書斎で、一週間に五十ギニーと言った自分が、遠い人のように思えた。
夕方、最後の一人を送り出したところで、戸口に女が立った。
四十くらいの、痩せた女だった。赤茶けた髪を布で包んでいる。
『ヘイル先生。覚えてるかい』
「…ネル・コッター」
六年前のことだ。セント・ジャイルズの路地裏で、五つの男の子の腕を切り落とさずに済ませた。車に轢かれて、骨が皮を破って出ていた。誰も診たがらない子だった。
『あの子、今は十一だよ。両方の腕で荷車を引いてる』
「よかった」
『あんたが困ってるって聞いた』
ネルは、部屋に入ってこなかった。戸口に立ったまま言った。
『あたしは、セント・ジャイルズで木賃宿をやってる。泊まるのは、日雇いと、泥棒と、夜に仕事する連中だ。あたしの宿じゃ、誰が何をしてるか、みんな知ってる』
「聞きたいことがあるの」
『聞きな』
「救貧院で死んだ人の体を、病院に運ぶ仕事をしている人たちがいるでしょう。夜に、荷車で」
ネルの顔が、わずかに固くなった。
『いるよ。うちにも二人泊まってる』
「その人たちが、どこから、どこへ、いつ運ぶのか。それと、シティのホルブルック&サンズっていう銀行のこと。地下の金庫に、誰がいつ入るのか」
『銀行の話まで聞くのかい』
ネルは、初めて笑った。歯が何本か欠けていた。
『先生。あんた、どこかで道を間違えたね』
「たぶんね」
『三日もらえば調べるよ。うちの宿の連中は、鍵と錠の話が好きなんだ』
ネルは、帰りかけて振り返った。
『代金はいらない。あの子の腕は、まだ二本ついてる』
*
日曜日の朝、フローラは十三になった。
オーガスタは夜明け前から起きて、レモンのケーキを焼いた。卵は患者からもらったものだ。砂糖は、二百ギニーの一部で買った。
焼き上がったものは、色が濃すぎた。触ると固かった。
『…ママ』
フローラが、慎重な顔でケーキを見た。
『これ、切れる?』
「切れるわよ。わたしを誰だと思ってるの」
メスではなく、パン切りナイフを使った。それでも、力を入れないと切れなかった。
フローラは一切れ食べて、二口目で降参した。二人で笑った。
『でも、おいしいよ。端っこのほうは』
「端っこだけね」
『うん。端っこだけ』
そのとき、表で馬車の音がした。
扉を開けると、エドワード・ダーウェントが立っていた。まだ少し腰をかばっている。その後ろにペンローズ。さらにその後ろに、大きな白い箱を抱えた料理人。
『やあ、相棒! 誕生日おめでとう!』
フローラが悲鳴のような声を上げた。
箱の中は、レモンのケーキだった。砂糖がけの上に、砂糖菓子の薔薇が十三個並んでいた。
『先生。座る場所、ある?』
「床でよければ」
『上等だ』
狭い部屋に、大人が五人と子どもが一人。椅子が足りず、誰かは床に座った。ミセス・ドイルまで階段を上がってきて、勝手に紅茶を淹れはじめた。
フローラは、砂糖の薔薇を一つずつ数えていた。数えるたびに、笑っていた。
オーガスタは、その横顔を見ていた。
この子がこんなに笑ったのは、一年ぶりかもしれない。そう思って、自分の胸に何かが刺さるのを感じた。
去年の誕生日は、往診で家にいなかった。帰ったのは夜中で、この子はパンと乾酪を食べて、一人で寝ていた。
『先生』
エドワードが、紅茶の杯を手にしたまま、小声で言った。
『兄上、外にいるよ』
「…え」
『さっきから、雨の中で馬車の横に立ってる。入ってこないんだ。三十分くらいかな』
オーガスタは、扉を開けた。
細かい雨が降っていた。
ルシアン・ダーウェントは、街灯の下に立っていた。傘も持たず、外套の肩を濡らして、この家の窓を見上げていた。
「…風邪をひくわよ」
『入れる気になるまで、時間がかかった』
「三十分も?」
『三日かかった。あとの三十分は、雨のせいだ』
オーガスタは、扉の枠にもたれた。
『謝りに来た』
「謝るのはわたしよ」
『君は謝った。私が受け取らなかった』
ルシアンは、雨の中で一歩近づいた。
『あの晩、私が怒ったのは、君が黙っていたからではない』
「じゃあ、何なの」
『私なら、叔父を庇ったかもしれないと気づいたからだ』
雨の音が、二人のあいだに落ちた。
『叔父が生きていて、私に打ち明けていたら。私はたぶん、警察に渡さなかった。家の名前のために黙らせて、静かに死なせた。私は、そういう男だ。君は最初から、それを見抜いていたんだろう』
「…見抜いてないわ」
オーガスタは言った。
「わたしは、あなたが壊れるのが嫌だっただけ。それだけよ」
ルシアンが、目を閉じた。
『それを聞きに来た』
そして、雨の中で笑った。二度目に見る笑い方だった。
『三日かけて、それだけを聞きに来た。伯爵というのは、暇なものだな』
オーガスタは、扉の枠から離れた。
雨の中に一歩出て、両手で、この男の濡れた襟をつかんだ。
「触らない約束、そっちから破ったんだから」
『そうだ』
「じゃあ、こっちも破るわ」
背伸びをして、口づけた。
雨が冷たくて、唇が温かかった。
家の中から、フローラの大きすぎる歓声と、ミセス・ドイルの口笛と、エドワードが「いてて」と脇腹を押さえる声が、いっぺんに聞こえてきた。
『…見られているな』
「全員にね」
『構わん』
ルシアンは、そう言って、もう一度顔を寄せた。
*
客が帰ったのは、夜だった。
フローラは、砂糖菓子の薔薇を一つだけ、皿に残して紙で包んだ。
『これ、明日食べるの。今日全部食べちゃったら、誕生日が終わっちゃうから』
「明日も誕生日でいいわよ。あなたが決めて」
『じゃあ水曜日まで誕生日にする』
「欲張りね」
笑いながら、オーガスタは机の上の紙を見た。
ネルが帰り際に置いていった、走り書きの紙だった。
「ホルブルック&サンズ 地下金庫 立会いは行員二名 貸主の署名が要る」
そして、その下に。
「サー・エドマンド・キャロウ 次の立会い 五月十三日 水曜 午前十一時」
三日後だった。
年に一度、あの男が自分の手で帳面を開く日。
名前と、日付と、金額。ケイド警部が欲しがっている三つが、その日だけ、鉄の箱から外に出る。
オーガスタは、砂糖の薔薇を包んでいる娘を見た。
それから、紙を折って、道具鞄の底にしまった。
第十三章 了
── 第13章 おわり ──