オリジナルノベル
挿絵

第12章

四十年の告白

金曜日の朝食の卓は、にぎやかだった。

エドワードが、パンを三切れ食べていた。傷が塞がりかけている証拠だ。フローラはその向かいで、砂糖壺の砂糖を三杯も紅茶に入れて、オーガスタに睨まれていた。

『先生、聞いてくれよ。こいつ、日曜に十三になるんだってさ』

「聞いてるわ。産んだのはわたしだもの」

『十三か。もう立派な淑女だな。ケーキは何がいい』

フローラが即座に手を挙げて、レモンの、上に砂糖がけのやつ、と叫んだ。

「エドワード。甘やかさないで」

『甘やかしてない。祝ってるだけだ』

戸口で、ペンローズが小さく咳払いをした。

「ペンローズ?」

『恐れながら、レモンのケーキでしたら、当家の料理人の得意でございます。日曜の午後にご用意できます』

フローラが、椅子の上で飛び跳ねた。

この屋敷に来て八日。この子は、こんなに笑うようになった。

グリーク街の家には、笑い声の相手がいなかった。オーガスタは往診に出ていることが多く、この子はいつも、暗くなった部屋で一人で本を読んで待っていた。

それを思うと、胸が詰まった。

ここは、借り物の家だ。忘れてはいけない。

*

昼前に、ケイド警部がやってきた。

今日は手帳を出さなかった。帽子を膝に置いて、紅茶を一口飲んでから言った。

『グレイブ医師の死は、病死として片づきます』

「桟橋で倒れて、三時間で死んだ人が?」

『ご家族が、体を調べることを拒みました。娘さんが二人おられましてね。父親の体に刃物を入れるくらいなら、死因など知らなくていいとおっしゃる』

オーガスタは、テーブルの木目を見つめた。

また、同じ壁だった。

「警部さん。この国では、人を殺すのに刃物も銃もいらないのね。相手の家族が、体を切られるのを嫌がってくれさえすれば」

『おっしゃるとおりです』

ケイドは、静かに答えた。

『私は十一年、この仕事をしています。貧しい者が死ねば、誰でも体を開いて調べられる。身寄りがなければ、そのまま学生の教材になる。ところが、立派な家の方が死ぬと、指一本触れられない。同じロンドンで、同じ法律の下でです』

「悔しくないんですか」

『悔しいですよ』

彼は、紅茶の杯を置いた。

『だから申し上げる。奥さん。私は貴族の寝室には入れません。ですが、紙の上に名前と数字があって、それが金の動きなら、話は別です。銀行の記録は、爵位を持っていません』

ケイドは立ち上がった。

『名前と、日付と、金額。その三つが書いてある紙を持ってきてください。そうすれば、私は令状を取りにいきます。相手がサーだろうが、卿だろうが関係ない。私は、そこからは仕事ができる』

玄関で帽子をかぶりながら、彼は付け加えた。

『ただし、盗んできた紙は使えません。それだけは覚えておいてください』

扉が閉まってから、オーガスタは長いあいだ動かなかった。

名前と、日付と、金額。

それは、シティの銀行の地下にある。貸金庫の三十七番だ。

盗んできた紙は使えない。

では、どうすればいい。

*

午後、書斎に呼ばれた。

ルシアンが窓辺に立っていた。その隣に、ペンローズが背筋を伸ばして立っている。

『ペンローズが、話があると言う。君も聞いてくれと』

オーガスタは扉を閉めた。

執事は、一度だけ、深く息を吸った。

『旦那様。四十年お仕えして、申し上げなかったことがございます』

ルシアンが、短く促した。

『今年の三月でございます。ホレス様が、わたくしをお部屋に呼ばれました。ひどく弱っておいででした。そして、こうおっしゃいました』

ペンローズの声は、いつもと同じ調子だった。同じ調子を保とうとして、失敗しかけていた。

『「ペンローズ。わしは、兄を殺した」と』

部屋の空気が、止まった。

ルシアンの顔から、表情が抜け落ちた。

『一八三四年、先代の旦那様が長くお患いになったころ、ホレス様は、ある医者に相談をなさいました。お金をお払いになりました。五百ギニーでございます』

黙れ、とルシアンが押し殺した声で言った。

『そのあと六年、ホレス様は一度も夜に眠れませんでした。わたくしは、毎晩、蝋燭を持って廊下を歩くあの方を見ておりました』

ルシアンが、机を拳で叩いた。

硝子の杯が倒れ、絨毯に水が広がった。

ペンローズは、瞬きもしなかった。

『ホレス様は、舞踏会の夜に、旦那様へすべてを打ち明けるおつもりでした。そのために、証拠となる手紙を取り戻そうとなさって、エドワード様にお使いを頼まれた。そして、その晩に亡くなりました』

出ていけ、とルシアンが言った。

『かしこまりました』

執事は一礼し、扉に向かった。

それから、足を止めて言った。

『旦那様。ホレス様は、悪い方ではございませんでした。ただ、一度だけ、取り返しのつかないことをなさった方でございます。わたくしは、それでも四十年、あの方をお慕い申し上げておりました』

扉が閉まった。

部屋に、二人きりになった。

ルシアンは窓のほうを向いたまま、長いこと黙っていた。

それから、振り返らずに言った。

『君は、知っていたのか』

息が、喉の奥で止まった。

ここで嘘をつけば、たぶん、ばれない。

けれど、夫の手紙を読んだ日から、嘘のついでに嘘を重ねる人間になるのだけは嫌だと、そう思っていたはずだった。

「…知っていたわ」

『いつからだ』

「帳面を読んだ日から。一週間よ」

ルシアンが振り向いた。

緑の目が、見たことのない色をしていた。

『あの夜、私は君に父の話をした。母の葬式の話もした。私は、あの晩に生まれて初めて、人前でみっともないところを見せた』

「ルシアン」

『君はそのとき、もう知っていたわけだ。私の叔父が、私の父を殺すのに五百ギニー払ったことを』

「言えば、あなたが壊れると思ったの」

『壊れる?』

声が、初めて大きくなった。

『私を何だと思っている。守られる側か。君が切って、縫って、守ってやる側か』

「そうじゃない」

『同じことだ』

彼は、机の上の帳面を掴んだ。そして、それをオーガスタの前に置いた。

『この家の中で、私に嘘をついていたのは君だけだ。使用人も、弟も、叔父の執事すら、私に本当のことを言いに来た。君だけが黙っていた』

オーガスタは、帳面を受け取らなかった。

受け取れば、終わりだと思った。

「…ごめんなさい」

『謝罪はいらない』

『今夜は、一人にしてくれ』

それは、命令ではなかった。もっと静かで、もっと取り返しのつかない響きだった。

*

その夜、オーガスタは荷物をまとめた。

持ってきた物は少ない。道具鞄と、着替えと、夫の帳面と、グレイブの書類挟み。

フローラが、寝間着のまま扉のところに立っていた。

『…帰るの?』

「帰るわ。うちに」

『日曜日は? ケーキは?』

「うちで焼きましょう。わたしが焼くわ」

『ママのお菓子、固いもん』

「知ってるわよ」

フローラは、しばらく動かなかった。それから、小さな声で聞いた。

『喧嘩したの? 伯爵さまと』

「したわ」

『ママが悪いの?』

オーガスタは、荷物をまとめる手を止めた。

嘘をつくこともできた。大人の事情だと言うこともできた。

「わたしが悪いの」

そう答えた。

「わたしね、あの人に、言わなきゃいけないことを言わなかったの。言ったら傷つくと思って。でもね、それは優しさじゃなかった。ただ、わたしが怖かっただけ」

フローラは、母親の顔をじっと見ていた。

それから、走ってきて、腰に抱きついた。

『じゃあ、謝りに行かなきゃ』

「もう謝ったわ。許してもらえなかった」

『もう一回行くの。一回で許してもらえなかったら、二回行くんだよ。ママがいつも、わたしにそう言うんじゃん』

オーガスタは、娘の頭に手を置いた。

十三になるこの子に、言い返せることは何もなかった。

第十二章 了

── 第12章 おわり ──

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砂糖の薔薇
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