
第11章
八シリング
メゾン・ボーモンの表の扉には、閉店の札が下がっていた。
オーガスタは裏の路地に回り、勝手口を叩いた。返事はない。もう一度叩いた。
『今日は店じまい…あらぁ、マ・シェリ』
マダム・セリーヌ・ボーモンが顔を出した。髪を下ろし、化粧を落としている。そうすると、思ったより歳がいって見えた。
「話があるの」
『ドレスの話?』
「ドクター・グレイブの話。それと、わたしの夫の話」
マダムの笑顔が、動かなくなった。それから、扉を大きく開けた。
奥の作業場には、布と型紙と、裁ち台。
そして、部屋の隅に、布をかぶせた背の低い機械が置いてあった。オーガスタは、それが何か知っていた。印刷機だ。小さな、手で回す型の。
マダムは布を取りもしなかった。隠す気がないのだと分かった。
「あなたが、鍵穴夫人ね」
『そうよ』
あっさりしたものだった。
『驚いた顔をしないのね』
「あなたの店には、ロンドン中の淑女が下着姿で立つもの。喋らないほうがおかしいわ」
マダムは笑った。今度は、フランス訛りではなかった。
『そのとおり。この街でいちばん物を知ってるのは、仕立て屋と、侍女と、洗濯女よ。旦那がたは、自分の靴を磨く人間が耳を持ってるなんて、思いもしない』
「本当の名前は」
『エリザ・バンクス。セント・ジャイルズの生まれ。母親は洗濯女で、父親は知らない』
彼女は裁ち台に腰かけ、足を組んだ。
『十四で仕立て屋に奉公して、二十二でフランス人のふりを始めたの。パリの名前をつけたら、同じドレスが三倍で売れた。ばかばかしいでしょう。でも、それがこの国よ』
「グレイブが言っていたわ。わたしの夫が帳面をつけていることを、キャロウに教えたのはあなただって」
言った瞬間、マダムの肩が落ちた。
今まで見たことのない動きだった。虚勢が、一枚剥がれた。
『…言い訳をしてもいい?』
「どうぞ」
『あたしは、秘密を売って生きてる。誰が誰と寝たか、どこの家が破産寸前か。そういう話を、一つ何ポンドで売るの。一八三七年の冬、買い手の一人から注文が来た。医者のことなら何でもいい、と』
「キャロウ」
『名前は出さない人だったわ。あたしは、ヘイル先生が妙な聞き込みをして回ってるって話を売った。三ポンドよ。三ポンド』
マダムは、自分の手を見ていた。針だこのある、荒れた手だった。
『その二か月後に、あの人は死んだ。熱病だって聞いた。あたしは、しばらくそれを信じたわ。信じないと、寝られなかったから』
オーガスタは、何も言わなかった。
言えることが、何もなかった。
「…どうして、続けているの」
『秘密を売ること?』
「『鍵穴』のほうよ」
マダムは、しばらく黙った。
それから立ち上がり、裁ち台の抽斗を開けた。中から、小さな布の包みを出す。
開くと、子どもの靴が片方だけ入っていた。ぼろぼろの、底の抜けた靴だった。
『ナン。あたしの娘。七つで死んだ』
オーガスタは、息を止めた。
『あたしが三十四のとき。店を出したばかりで、忙しくてね。熱を出した子を、近所に預けて仕事に行ったの。戻ったら、もう救貧院の病室に運ばれてた。その晩に死んだって』
マダムは、靴を撫でた。
『引き取りに行ったら、もう埋めたと言われた。墓を教えろと言っても、教えない。三か月かけて調べたわ。救貧院で死んで、引き取り手がすぐ来ない子どもの体は、病院に売られてたの。一体いくらだと思う?』
「…やめて」
『八シリングよ』
静かな声だった。
『あの子は、八シリングで切り刻まれた。法律どおりにね。あれは犯罪じゃないの。引き取り手のない貧乏人の体は、学問のために使ってよろしいって、そう決まってるんだから』
部屋の空気が、重かった。
『それから、あたしは秘密を集め始めた。貧乏人が金持ちに勝てるものは、この国に一つしかない。金持ちが隠したがることを、知ってることよ』
マダムは、靴を包み直した。
『でもね。売りすぎたの。売った相手が誰か、確かめもしないで。それであんたの亭主が死んだ。あたしはね、ヘイル夫人。あの八シリングの連中と、結局、同じことをしてたのよ』
オーガスタは、椅子から立ち上がった。
どうすべきか、自分でも分からなかった。この女を憎む理由は十分ある。夫を殺した手紙の、最初の一行を書いたのはこの女だ。
けれど、床に置かれた小さな靴から、目が離せなかった。
「エリザ」
初めて、本当の名前を呼んだ。
「わたしと組んで」
『…なんですって』
「キャロウを倒すの。あなたの新聞と、あなたの侍女たちと、わたしの証拠で」
マダムは、目を丸くした。それから、乾いた笑い声を上げた。
『赦してくれるってこと?』
「赦さないわ。一生ね」
オーガスタは言った。
「でも、赦さない人間とでも、仕事はできるでしょう。医者は、嫌いな患者でも切るの」
マダムは、しばらくオーガスタの顔を見ていた。
それから、右手を差し出した。針だこだらけの手だった。
『いい台詞ね。次の号に使わせてもらうわ』
「使わないで」
*
帰り道、ボンド街の角で、新聞売りの少年が叫んでいた。
夕刊を振り回して、ハーレー街の医者が桟橋で急死した、と繰り返している。
オーガスタは、足を止めた。
一ペニーを渡し、紙を受け取る手が震えた。
記事は五行しかなかった。ドーヴァー行きの船を待っていた医師フィニアス・グレイブが、待合所で急に苦しみだし、その場で死亡した。かかりつけの医者の見立てでは、長く胃を患っていたという。
胃の病。
今朝、あの男は生きていた。ブーローニュの話をして、フランスでは毎晩これを思い出すのはごめんだと言って、書類挟みを押しつけてきた。
その書類挟みは、今、オーガスタの腕の中にある。
十四年分の、嘘の死亡届の控え。
死んだ男が、最後に一つだけ、本当のことをしようとして残したものだ。
通りの向こうで、待たせていた馬車の扉が開いた。
ルシアンが降りてきて、大股で歩いてくる。
オーガスタは、新聞を握りしめたまま、その場から動けなかった。
これで、四つの行に名前を書いた男は、いなくなった。
残ったのは、紙の束と、女が二人と、伯爵が一人だ。
第十一章 了
── 第11章 おわり ──