
第10章
鞄を詰める男
ドクター・グレイブの家は、ハーレー街の南の端にあった。
立派な扉に、真鍮の表札。医者としては上等な住所だ。
朝の八時に扉を叩くと、召使いではなく、グレイブ本人が出てきた。
髭を剃っていなかった。目の下が黒い。上等な上着の下に、寝間着の襟が覗いていた。
『…なんだ、君か』
「入れていただけます?」
『帰りたまえ』
「テムズから男が上がったそうです。喉を刺されて。鳥打帽の、背の低い男」
グレイブの顔から、血の気が引いた。
扉が、内側に開いた。
廊下には、旅行鞄が三つ並んでいた。蓋が開いたままで、シャツや本が半分だけ詰め込まれている。
「どこへ行くんですか」
『ブーローニュだ。船は夕方に出る。医者はどこでも食っていける』
「フランスまで逃げるようなことを、したんですね」
グレイブは、答えなかった。応接間に入り、酒の瓶を取った。朝の八時だった。
「一八三一年。サマーヴィル男爵。一八三三年。レディ・アークロイド。一八三四年。ダーウェント伯爵。全部あなたが、胃の病と書いた」
『黙れ』
「一八三五年のラスボーン氏だけ、書いたのはあなたじゃない。わたしの夫です」
グレイブの手が止まった。
『…知っていたのか』
「ゆうべ知りました」
『ならば、私を責める資格はないな。君の亭主も同じ穴だ』
「ええ。資格はありません」
オーガスタは、椅子に座った。
「だから、責めに来たんじゃないんです。聞きに来たの」
グレイブは酒を飲んだ。二杯目で、ようやく口が動くようになった。
『一八二六年だ』
「…え」
『私が三十六のときだ。往診先で、薬の量を間違えた。若い母親でな。二時間後に死んだ。私は届けに、産後の熱と書いた。誰も疑わなかった』
彼は、杯を両手で包んでいた。
『三年後、あの男が私のところへ来た。手に、薬局の控えを持ってな。君が出した量はこうだったね、と。それだけだ。脅しの言葉は一つもなかった。ただ、控えをテーブルに置いて、微笑んだ』
「…キャロウ」
『それから十一年、私は同じことを繰り返した。呼ばれて行って、死んだ人を見て、胃の病と書く。それだけだ。私は誰も殺していない』
「毒を盛ったのは?」
『知らん。本当に知らんのだ。家の者だったり、雇われた者だったり、いろいろだろう』
グレイブは、急に声を高くした。
『いいか、勘違いするな。あの男が、金をもらって人を殺して回っていると思っているなら、それは違う。逆だ』
「逆?」
『頼むのは、家族のほうだ』
部屋の空気が、変わった。
『年寄りが長生きしすぎる。爵位を継げない。借金が返せない。財産を使い込まれる。そういう家の跡取りが、あの男に相談する。相談されると、あの男は解決する。そして、金を受け取る』
「…相談」
『社交界というのはな、ヘイル夫人。そういう相談ができる医者を、一人は知っているものなのだ』
オーガスタは、しばらく声が出なかった。
帳面の金額は、キャロウが払った金ではなかった。
家族が、払った金だった。
「一八三四年。ダーウェント伯爵の五百ギニー。横に『H・Dより受領』とあります」
『そうだ』
グレイブは、乾いた笑いを漏らした。
『ホレス・ダーウェント。弟が、兄を』
知っていたことのはずだった。それでも、耳で聞くと、内臓が縮むような感じがした。
「そのホレスさんも、先月、同じやり方で殺されました」
『ああ。頼んだ人間が、頼まれる側の秘密を持ちすぎたんだろう。あの男は、使った道具を片づける』
「もう一つ聞かせてください」
オーガスタは、膝の上で両手を組んだ。
「夫は、どうして死んだんですか」
グレイブは、杯を置いた。長いあいだ、絨毯の模様を見ていた。
『一八三七年の三月だ。君の亭主が、私のところへ来た。帳面を見せてきた。自首しろ、さもなければ自分が全部公にすると言った』
「…それで」
『私は震え上がって、キャロウに話した』
彼は、自分の手を見た。太い指が、細かく震えている。
『二週間後、ヘイル君が熱を出した。解剖のときに指を切ったと言っていた。私が呼ばれて、診た。薬を出した』
「あなたが出した薬?」
『いや』
グレイブは、顔を上げなかった。
『前の晩に、キャロウから小瓶を渡されていた。「熱にはこれがよい」と。私は、自分の鞄からその瓶を出して、君に渡した』
オーガスタは、立ち上がっていた。
三年前の寝室が見えた。夫の額に濡れた布を当てて、二時間おきに薬を飲ませた。匙で、自分の手で、口に流し込んだ。
「わたしが」
声がかすれた。
「わたしが、飲ませたのよ。あれを。三日間」
『…すまなかった』
グレイブは、初めてまっすぐにこちらを見た。赤ら顔が、みっともなく崩れていた。
『すまなかった。ヘイル夫人。私は、そう言うために、この三年、君を見るたびに顔をそむけていた。葬式の日に君を侮辱したのも、そうしないと自分が保たなかったからだ』
オーガスタは、部屋の真ん中に立ったまま動けなかった。
この男を殴れば、少しは楽になるだろうか。そんなことを考えた。
けれど、手は上がらなかった。
上げたところで、夫は戻らない。
*
出ていく前に、グレイブは書斎から古い書類挟みを持ってきた。
『持っていけ。私が書いた届けの控えだ。十四年分ある。私の字と、日付が残っている』
「…これ、あなたの首を絞めるものですよ」
『だから渡すのだ。フランスで、毎晩これを思い出すのはごめんだ』
彼は、鞄の一つを乱暴に閉めた。
『もう一つ教えてやる。あの男は、記録を残す男だ。誰がいつ、いくら払ったか。全部書いてある。それが、シティのホルブルック&サンズという銀行の地下にある。貸金庫の三十七番だ。年に一度、あの男はそこで帳面を開く』
「なぜ、そんなことまで知っているんですか」
『銀行の立会人が二人要るからだ。十一年前、一度だけ私が呼ばれた』
グレイブは帽子をかぶった。
『それから、ヘイル夫人。君の亭主が帳面をつけていると、あの男に教えた人間がいる』
「誰です」
『ボンド街の、仕立て屋の女だ』
扉が開き、外の光が差し込んだ。
『あの女は、金持ちの秘密をあちこちに売っている。私のことも売った。君の亭主のことも売った。あの女のほうが、私よりよほど多くの人間を殺している』
馬車が来た。
グレイブは鞄を抱えて乗り込み、一度だけ振り返った。
『君の亭主は、いい医者ではなかった。だが、いい人間になろうとして死んだ。それだけは、本当だ』
馬車は、南へ走っていった。
オーガスタは、書類挟みを胸に抱えたまま、しばらく歩道に立っていた。
通りの向こうで、待っていた馬車の窓が開き、ルシアンがこちらを見ていた。
まだ、言えないことが二つに増えた。
第十章 了
── 第10章 おわり ──