
第9章
一八三五年の行
一八三五年 ヘンリー・ラスボーン氏 胃の病 届出医別 四百ギニー
その一行を、オーガスタは三十回は読んだ。
朝の光が、ダーウェント邸の客間の机を照らしている。帳面の頁は、夫の細かい字で埋まっていた。
届出医別。ほかの四つの行には、すべて「届出医グレイブ」と書いてある。この行だけが違う。
キャロウは言った。順番に読まれるといい、と。
オーガスタは立ち上がり、夫の道具鞄を持ってきた。中の道具を全部出し、底板を外す。革の合わせ目に、薄い手帳が挟まっていた。
夫の予定帳だった。三年前、葬式のあとに一度だけ開いて、閉じたものだ。書いてあるのは往診の予定と、金の出入りだけ。読んでも悲しくなるだけだと思って、そのまま鞄に戻した。
一八三五年の頁をめくった。
五月。細かい字が並んでいる。
「十一日 ラスボーン邸 往診」
「十三日 ラスボーン邸 容体悪し」
「十五日 ラスボーン氏 死去 届出 胃の病にて」
そして、その下に、金額が書いてあった。
「受領 二百ギニー」
指が、頁の上で止まった。
二百ギニー。一八三五年の夏、ヘイル家はソーホーのもっと狭い部屋を出て、グリーク街の家に移った。夫が「仕事がうまくいってな」と笑っていた。フローラに、中古のピアノを買ってやった年だ。あの子は三日で飽きたけれど、しばらく家の中に音があった。
その金だ。
オーガスタは、椅子の背に体を預けた。天井の飾りが、ぼやけて見えた。
夫は、一度だけ、嘘の死亡届に名前を書いた。
そして、その金で、家族に家とピアノを買った。
帳面を書き始めたのは、その次の年からだった。マーシュの検査をフィンチに頼んだのも、その二年後だ。
あの人は、自分の書いた一行を消すために、残りの人生を使ったのだ。
手紙の文句が、頭の中で鳴った。知りたくないことまで知ってしまう。フィンチが伝えた、夫の言葉だ。
これのことだったのか。
「…ばか」
声に出してから、涙が出た。
*
昼近くに、フローラが客間を覗きこんだ。
『ママ。エドワードさんが、今日は起きて庭を歩きたいって。いいの?』
「いいわ。十歩だけよ。十歩で戻ること」
『十歩ぉ? 厳しすぎない?』
「二十歩。それ以上はだめ」
フローラは笑って、それから母親の顔をじっと見た。
『ママ、泣いてた?』
「泣いてないわ」
『ふうん』
この子は、追及しないときの顔をする。三年前からそうだ。父親が死んだ月から、この子は、母親が黙っていることを、無理に聞き出さなくなった。
それが、ありがたくて、申し訳なかった。
「フローラ」
『なぁに』
「パパのこと、好き?」
『好きだよ。当たり前じゃん』
即答だった。
『なんで?』
「…なんでもないの。庭、行ってらっしゃい」
言えなかった。
この子の「好き」を、今日、自分の手で壊す理由はどこにもない。
けれど、いつか言わなければならない日が来る。そのとき、この子は何と言うだろう。
オーガスタは、予定帳を鞄の底に戻した。
*
その日の午後、ダーウェント邸に警察が来た。
ペンローズに案内されてきたのは、四十くらいの男だった。背はそれほど高くない。茶色の外套。髪は短く刈り込まれ、頬に古い傷が一本ある。手には、使い込んだ小さな手帳。
『警視庁のトマス・ケイド警部と申します。ヘイル夫人でいらっしゃいますか』
「そうです」
『先週の木曜、グリーク街のお宅が荒らされましたな。大家のミセス・ドイルが届け出ました。あの方は、声が大きい』
「…ええ、まあ」
『それで、二つばかりお伺いしたい』
ケイドは手帳を開いた。開いたが、見なかった。目は、ずっとオーガスタを見ていた。
『一つ。盗まれた物は何もない。銀の匙も、質に入れられる服も、そのままだ。なのに、本という本が破られ、布団まで裂かれていた。あれは、物を探した跡です。しかも、紙を探した跡だ』
「…そうかもしれません」
『どんな紙です』
「心当たりはありません」
ケイドは、少しのあいだ黙った。それから、うなずいた。
『二つ目。おとといの朝、テムズから男が一人上がりました。背の低い男で、鳥打帽をかぶっていた。喉を刺されてね。まだ名前が分かりません』
オーガスタの指が、膝の上で固くなった。
『ただ、妙な男でした。服に、変わった匂いが染みついていた。酢と、それから、何と言えばいいか』
「…腐った肉のような」
言ってから、しまったと思った。
ケイドの目が、初めてわずかに動いた。
『ご存じで』
「病院の、解剖の部屋の匂いです。父が、そういう仕事をしていたので」
『なるほど』
ケイドは手帳を閉じ、立ち上がった。
『今朝、ノーフォーク街でウィリアム・ラッセル卿が寝床で喉を切られました。もうご存じでしょう。ロンドン中の紳士が、今夜から自分の召使いの顔色をうかがって眠るわけです』
「…気の毒なことです」
『ええ。ですが、私が気の毒だと思うのは、テムズから上がった、名前も分からない男のほうでしてね』
ケイドは、名刺を一枚、机に置いた。
『金を持っている人間の言うことを、私はあまり信じない癖がある。悪い癖です。出世しません』
帰り際、扉のところで振り返った。
『奥さん。誰かが後始末を始めています。使った道具から順に、片づけていくやり方だ。次は、たぶん、紙に名前を書いた人間の番です』
*
その夜、オーガスタは書斎でルシアンに全部話した。
一八三五年のこと。二百ギニーのこと。ピアノのこと。
話しているあいだ、ルシアンは一度も口を挟まなかった。話し終えてから、ようやく言った。
『君は、その金で暮らしていたことを恥じている』
「…ええ」
『私は、父が死んだおかげで伯爵になった。その父を殺すのに、誰かが五百ギニー払っている。私は、その金で建った屋敷に住んで、その名前で人に頭を下げさせている』
彼は、暖炉の火を見ていた。
『恥じるなら、二人で恥じよう。一人でやるな』
オーガスタは、何も言えなかった。
ただ、そのとき初めて、この男の隣にいることが、少しも苦しくなかった。
窓の外で、雨が降りはじめた。
紙に名前を書いた人間、とケイドは言った。
死亡届に、嘘の死因を書いた男。四つの行に名前が並んでいる男。
ドクター・フィニアス・グレイブ。
「明日の朝いちばんに、グレイブのところへ行くわ」
『私も行く』
「だめよ。伯爵が来たら、あの人は身構える。わたし一人のほうがいい」
『では、馬車の中で待つ』
それが、この男にできる精いっぱいの譲歩らしかった。
第九章 了
── 第9章 おわり ──