
第8章
一分二十秒
セント・ジョージ病院の手術室は、すり鉢の形をしていた。
真ん中に、木の台が一つ。そのまわりを、階段状の見物席がぐるりと囲んでいる。医学生、若い医者、見物に来た紳士。百人近くが、身を乗り出して下を覗きこんでいた。
床には、おがくずが厚く撒いてある。血を吸わせるためだ。
「…ここに、娘を連れてこなくてよかったわ」
『同感だ』
ルシアンが小声で答えた。二人は、上のほうの席に並んで座っていた。
台の上に寝かされたのは、痩せた少年だった。
十二歳くらいだろうか。髪はぼさぼさで、顔は土気色をしている。左の脚が、膝から下で腫れ上がり、黒ずんでいた。荷車に轢かれた脚を、そのままにしていたのだろう。
この段階まで来たら、切るしかない。切らなければ、毒が全身に回って死ぬ。
オーガスタには、それが分かった。分かるだけに、胸が悪くなった。
サー・エドマンド・キャロウが、黒い上着を着たまま台の横に立った。医者は手術のとき、血のこびりついた古い上着を着る。血を吸った上着ほど、腕のいい医者の証だとされていた。
キャロウは、少年の額に手を置いた。
『怖いかね』
少年は、口を動かしたが、声が出ないようだった。
『三分で終わる。目を閉じていなさい』
キャロウは助手に合図した。
四人の男が少年の体を押さえつけた。革のベルトが締められる。口には布が噛まされた。
見物席が、しんと静まった。
キャロウの左手が、少年の腿をつかんだ。右手の刃が、走った。
速かった。
ひと息で皮膚と肉を切り、刃を返して骨まで一周させる。無駄な動きが一つもない。助手が鋸を渡す。骨を挽く音が、三度。
太い血の管を絹糸で縛る。皮膚を引き下ろして、傷口をふさぐ。
壁の時計を見た。一分二十秒。
見物席から、ため息のような声が上がった。何人かが拍手した。
オーガスタは、拍手しなかった。手のひらに、爪が食い込んでいた。
速さは、優しさだ。麻酔のないこの国では、速い医者だけが、患者を苦しませずに済む。
だからこそ、余計に怖かった。
あの手は、間違いなく本物だ。
『さて、諸君』
キャロウは、血のついた手を上げて、見物席を見渡した。
『今日は珍しい客人が来ておられる。故ジョナサン・ヘイル氏の未亡人だ。ヘイル夫人、どうぞ下へ』
百人の顔が、いっせいにこちらを向いた。
隣で、ルシアンが小さく言った。
『断れ』
「断ったら、あの人の思うつぼよ」
オーガスタは立ち上がった。
台のそばまで降りると、血と汗と、おがくずの匂いが強くなった。
少年は、意識があった。歯を食いしばって、天井を見ている。
『奥さま。糸を押さえていただけますかな。助手が、今日は一人足りない』
キャロウは、絹糸の端を差し出した。
罠だ。分かっていた。
けれど、切り落とされた脚の断面から、細い血の筋が、また一本流れはじめているのが見えた。
オーガスタは糸を受け取った。
指が勝手に動いた。糸を引く強さ、角度、結び目の位置。十年間、何百回も繰り返した動きだ。
『ほう』
キャロウの声が、すぐ耳もとでした。
『次は、どこを縛ります?』
「骨の裏側の…」
言いかけて、飲み込んだ。遅かった。
『続けてください』
「…後ろ側の動脈です。骨の裏を回っているから、見えていなくても一本残ってる」
『そのとおり』
キャロウは、満足そうにうなずいた。
見物席の学生たちが、ざわざわと顔を見合わせている。未亡人が、外科の言葉で答えたからだ。
少年の手が、台の縁を掻きむしっていた。
オーガスタは、空いているほうの手で、その手を握った。
「痛いね。ごめんね」
少年が、初めてこちらを見た。
「うちの娘も、十二なの。あなたと同じ」
『…お、おれ、十三』
「あら、お兄さんだったのね。失礼しました」
少年の口の端が、わずかに動いた。笑おうとしたのだと分かった。
「よく我慢したわ。もう終わり。痛いのは今日でおしまいよ」
包帯が巻かれ、少年は担架で運ばれていった。
運ばれながら、最後まで、オーガスタの指を握っていた。
*
手術室の裏の小部屋で、キャロウは手を洗っていた。
水差しの水を、ゆっくりと指の間に流す。爪の中の血を、細い棒でていねいに掻き出す。この男は、手を洗うことにだけは時間をかけるらしい。
『あの子は、助かりますよ。膿まなければね』
「膿むかどうかは、運でしょう」
『そう。運です。年に何人死ぬか、私は数えています。去年は十一人だった』
キャロウは布で手を拭いた。
『さて、ヘイル夫人。単刀直入に申し上げましょう。あなたの手は、ご主人の手より上です。というより、ご主人に手などなかった。あの人は、蝋燭を持つ係でしたな』
オーガスタは答えなかった。
『怒らないでいただきたい。私は、褒めているのです』
キャロウは椅子に座り、足を組んだ。
『提案があります。私の下に来なさい。表向きは、病院付きの看護の責任者ということにする。実際には、私の手術の半分をあなたにやってもらう。報酬は、年に千ギニー』
千ギニー。オーガスタの一年の稼ぎの、十倍以上だった。
『娘さんには家庭教師をつけましょう。社交界に出られるようにしてさしあげてもいい。あなたは一生、隠れて人を切らずに済む』
「代わりに、何をすればいいの」
『何も。見たものを、黙って見ていればいい』
静かな声だった。
『この病院には、毎月、引き取り手のない死体が運ばれてきます。救貧院で死んだ者、路上で死んだ者。学生たちは、その体で学ぶ。あなたの父上が、エディンバラでなさっていたのと同じことです』
父の名を出されて、オーガスタの背が固くなった。
『貧しい者の体で学び、金持ちの体を治す。医学とはそういうものです。私は、それを恥だと思ったことがない。進歩には、いつも誰かの体がいる』
「進歩のために、人を殺してもいいの」
『殺す?』
キャロウは、心底不思議そうに首をかしげた。
『誰が、誰を殺したというのです』
そして、ごく穏やかに続けた。
『それより、ご主人の帳面。一八三五年の行は、もうお読みになりましたか』
「…なぜ、そこを」
『いえ。老婆心です。順番に読まれるといい。最後の行まで読むと、人は嫌でも、書いた人間のことを知ってしまうものですから』
キャロウは立ち上がり、扉を開けた。
『返事は急ぎません。ただし、あまり長くはお待ちしません』
第八章 了
── 第8章 おわり ──