オリジナルノベル
挿絵

第7章

秘密で払う

「行かないわ」

『理由を言え』

「未亡人が娘を連れて独り身の伯爵の屋敷に住む。それがどういう意味か、あなたなら分かるでしょう」

『分かる。社交界は一か月それで遊ぶ。それだけだ』

グリーク街の壊れた玄関で、ルシアンは傘もささずに立っていた。雨が肩に染みている。

『では逆に訊く。君の娘は今夜、切り裂かれた布団で眠るのか。錠の壊れた扉の内側で』

オーガスタは、言い返せなかった。

部屋の奥で、フローラが父親の本の頁を一枚ずつ集めている。破れた紙を、順番どおりに並べようとしている。

「…一つだけ条件があるわ」

『言え』

「あの子の部屋は、わたしの部屋の隣にして」

『とっくにそうしてある』

*

ダーウェント邸でフローラに与えられた部屋は、グリーク街の家の一階と二階を合わせたより広かった。

天蓋のついた寝台。花模様の壁紙。暖炉の上に、金の縁の鏡。

フローラは、扉のところで立ち止まったまま、中に入ろうとしなかった。

『…ママ。ここ、入っていいの?』

「いいのよ。今夜からあなたの部屋」

『でも、靴が汚れてる』

「脱げばいいわ」

フローラは靴を脱いで、両手に持ったまま、そろそろと絨毯を歩いた。寝台の端に、お尻を半分だけ載せて座る。それから、そっと手のひらで布を撫でた。

『すごく、やわらかい』

オーガスタは扉の枠にもたれて、その様子を見ていた。

この子に、こういう部屋を与えてやれたことは、一度もない。

それが伯爵の恩情で、しかも嘘の恋人としての立場でしかないことが、喉の奥に小さな棘のように刺さった。

翌朝、フローラの笑い声が廊下の向こうから聞こえてきた。

エドワードの部屋だった。寝台の上で、包帯を巻いた青年がトランプを配っている。

『ほら、もう一回。今度こそ当ててみろよ、相棒』

フローラが、真ん中のカードを勢いよく指さした。

『ざーんねん。右でしたー』

フローラが枕を投げつけた。エドワードは声を上げて笑い、そのあと脇腹を押さえて顔をしかめた。

「笑いすぎないで。傷が開くわ」

『先生。こいつ強いよ。俺、もう七回負けてる』

フローラが胸を張って、指を七本立てた。

「勝たせてもらってるのよ」

『…ちょっとだけね』

エドワードが片目をつぶった。フローラは気づかないふりをして、カードを切り直していた。

*

午後、書斎で、オーガスタは帳面をルシアンの前に置いた。

黒い表紙。細かい字。日付と名前と、金額。

ルシアンは、一頁ずつゆっくり読んだ。一八三四年の行のところで、指が止まった。

『ダーウェント伯爵。胃の病。届出医グレイブ。五百ギニー』

声が、平らだった。

『父は、殺されたのか』

「…そう書いてあるわけじゃないの。ここに書いてあるのは、死んだ人と、動いたお金だけ。でも、グレイブとキャロウが、六年前に二百十五ギニー受け取っているのは、あなたの家の帳簿が証明してる」

ルシアンは、帳面を閉じた。それから、しばらく窓の外を見ていた。

『私は、父が好きではなかった』

「…ええ」

『母の葬式に来なかった男だ。私が伯爵になった日に、屋敷の者は誰も泣かなかった。そういう男だった』

彼は、手の甲で目を押さえた。一瞬だけだった。

『それでも、殺されたのなら話は別だ』

オーガスタは、黙っていた。

言えなかったことが、一つある。

帳面の一八三四年の行には、もう一つ書き添えがあった。「H・Dより受領」。ホレス・ダーウェント。この男の叔父。

五百ギニーを払った者が、叔父だとしたら。

ルシアンの父を殺させたのは叔父で、その叔父もまた殺された、ということになる。

今、それを言えば、この男は壊れる。そう思った。

だから、言わなかった。

自分が今、嘘をついているということを、オーガスタははっきり自覚していた。

*

その夜、眠れなかった。

蝋燭を持って書斎に降りると、暖炉の前の椅子に、先客がいた。

上着を脱いだルシアンが、ブランデーの杯を持ったまま、火を見ていた。

『眠れないか』

「あなたもね」

オーガスタは向かいの椅子に座った。火が、ぱちりと音を立てた。

「夫の手紙を、読んだの。昨日」

『帳面と一緒にあったやつか』

「そう。十年間、『ヘイル先生』と呼ばれていたのは自分だけど、切っていたのは君だって、書いてあった。自分は、わたしの名前を盗んで生きてきたって」

杯が止まった。

「怒ってもよかったのよ。三年前に読んでいたら、たぶん本を投げつけてたわ。でも、三年たって読んだら」

声が、うまく続かなかった。

「あの人、ずっと知ってたのよ。わたしの手が何をしてるか。蝋燭を持って、後ろに立って。ずっと」

ルシアンは、何も言わなかった。

それから、杯を置いて、手を伸ばした。

オーガスタの右手を取った。手袋は、していなかった。

指の腹が、人差し指の横の硬いたこに触れた。

「…触らない約束よ」

『破った』

「ひどい人ね」

『そうだ』

彼の親指が、たこの上をゆっくりなぞった。キャロウがしたのと同じ場所だった。同じ動きのはずなのに、背中を走るものが、まるで違った。

『いつか、君の名前で呼ばれる日が来るといい』

低い声だった。

『ミセス・ヘイルでも、私の恋人でもなく。この手で人を助けた者の名前としてだ』

オーガスタは、手を引かなかった。

引かないことに気づいて、自分で自分に驚いた。

扉が、静かに二度叩かれた。

オーガスタは慌てて手を引いた。ルシアンは、何事もなかったような顔で杯を取った。

「どうぞ」

『失礼いたします』

ペンローズだった。燭台を持ち、白い布の包みを捧げ持っている。

『ミセス・ヘイル。執刀料を、お支払いに参りました』

「…執刀料?」

『あの夜、申し上げました。お代は金貨か、秘密かと。わたくしには金貨がございません』

ペンローズは、テーブルに包みを置いて開いた。

中から出てきたのは、折れたナイフの刃先だった。エドワードの体から抜き取った、親指の先ほどの金属。

『台所の桶に残っておりましたのを、わたくしがお預かりしておりました』

オーガスタは蝋燭を近づけた。

刃先の根元に、小さな焼き印がある。目を細めると、二つの文字と数字が読めた。

「S・G。十四」

『セント・ジョージ病院の備品でございます』

ペンローズの声は、いつもと同じだった。

『病院では、刃物にも寝具にも番号を打ちます。十四番の解剖用の刃が、なぜ庭にあったのか。わたくしには分かりかねます』

ルシアンが立ち上がり、なぜ今まで黙っていたのかと問うた。

『秘密は一度に一つと、ミセス・ヘイルがお決めになりましたので』

執事は、まっすぐに前を向いたまま続けた。

『もう一つ、お支払いいたします。鍵穴夫人に、あの夜のことをお話ししたのは、わたくしでございます』

部屋が、しんとなった。

『ホレス様に、ずっと申しつけられておりました。「わしが急に死んだら、静かに埋めさせるな」と。何度も、何度も。わたくしは四十年、あの方にお仕えしました』

初めて、ペンローズの薄い青の目が、ほんの少しだけ揺れた。

『赤毛の未亡人のことを書けば、旦那様は奥様を屋敷に入れざるを得なくなる。そう考えました。差し出がましいことをいたしました』

「…ペンローズ」

『はい』

「執刀料は、もう十分よ」

*

翌朝、朝食の卓に、銀の盆が運ばれてきた。

盆の上に、一通の手紙。上等な紙で、封蝋は濃い緑だった。

宛名は「ミセス・オーガスタ・ヘイル」。

差出人の名を見て、オーガスタはパン切りナイフを置いた。

拝啓 ヘイル夫人

先夜はお目にかかれて幸いでした。

来る五月四日、月曜日の午後一時より、セント・ジョージ病院にて足の切断手術を行います。学生と紳士諸君に公開しておりますので、ぜひご見学にお越しください。ご主人の未亡人であれば、退屈はなさらぬでしょう。

ご主人がお残しになった帳面のお話も、そのときに。

エドマンド・キャロウ

第七章 了

── 第7章 おわり ──

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