
第6章
三年分の手紙
木曜日の朝、フィンチ薬局の扉を開けたとき、ナサニエル・フィンチは棚の瓶を並べ替えていた。
オーガスタの顔を見た瞬間、その手が止まった。
「ナサニエル。夫から、何か預かってる?」
瓶が、ことりと棚に置かれた。
フィンチは眼鏡を外し、布で拭いて、またかけ直した。それから、長い息を吐いた。
『三年、待ったよ』
「…え」
『三年だ、オーガスタ。君が自分からその質問をするのを、三年待ってた』
「どうして、言ってくれなかったの」
『ジョナサンが、そう言ったんだ』
フィンチは奥の部屋の扉を開け、椅子を勧めた。フローラが、母親の袖をつかんだまま座った。
『「もし俺が死んだら、妻には何も言うな」って。「あいつが自分で思い出して、自分の足でここに来たときだけ渡してくれ。俺のほうから押しつけたら、あいつは知りたくないことまで知ってしまう」。そう言ったんだ』
「知りたくないこと?」
『中身は見てない。神に誓って、一度もね』
フィンチは膝をついて、床板を一枚外した。
下から、油紙に包んだ平たい包みを取り出した。
包みの中には、二つ入っていた。
黒い表紙の帳面が一冊。それと、封をした手紙が一通。
手紙の表には、夫の字でこう書いてあった。
「オーガスタへ。これを読むころ、私はもういない」
フローラが、小さく息を呑んだ。
オーガスタは、しばらく封を切れなかった。指が言うことを聞かなかった。
親愛なるオーガスタ。
君がこれを読んでいるということは、私は死んだのだろう。おそらく、急な病ということになっているはずだ。信じないでくれ。よく調べてくれ。私の体を、君の手で。それができるのは君だけだ。
まず、謝らなければならないことがある。三年前から書こうとして、書けなかったことだ。
この十年、ロンドンで「ヘイル先生」と呼ばれてきたのは私だ。会費を払い、免許を持ち、紳士の集まりで握手をしてきたのは私だ。だが、切っていたのは君だ。夜中に呼ばれて、震えもせずに人の腹を開いて、縫って、帰ってきたのは君だ。私は君の後ろで、蝋燭を持っていた。
私は、君の名前を盗んで生きてきた。
言い訳を一つだけ書く。君が女でなければ、私は君の弟子になりたかった。あの国では、それが許されない。だから私は、自分の名前を君に貸しているのだと、そう思うことにした。貸していたのではない。奪っていたのだ。それに気づくのに、十年かかった。すまなかった。
もう一つ。最近、おかしなことに気づいた。名のある家の年寄りや当主が、同じような死に方をしている。急に胃を悪くして、吐いて、三日か四日で死ぬ。そして、その家にはいつも同じ医者たちが出入りしている。届けには「胃の病」と書かれ、誰も体を調べない。この国の紳士は、死んでから体を切られるのを、殺されるより嫌がるからだ。
帳面に、分かったことを全部書いた。日付と、名前と、金の動きだ。まだ足りない。証拠にはならない。だが、始まりにはなる。
オーガスタ。君はこれを見たら、必ず続きをやろうとするだろう。やめろとは言わない。言っても無駄なのを知っている。だから一つだけ頼む。フローラを、一人にしないでくれ。
最後に、いちばん言いたかったことを書く。
君の手は、人を助けるためにできている。
私の名前ではなく、君の名前で、いつかそう呼ばれるといい。
ジョナサン・ヘイル
読み終えたとき、紙に丸い染みがいくつもできていた。
フローラが、母親の顔を見上げていた。
『ママ…泣いてる』
「泣いてないわ」
『泣いてるよ』
「…うるさいわね」
オーガスタは袖で乱暴に顔を拭いた。フローラが、手紙をそっと膝から拾い上げ、皺を伸ばして、ていねいに畳んだ。
フィンチは、棚のほうを向いていた。背中が、少し震えていた。
帳面には、細かい字がびっしり並んでいた。
日付。家の名前。死んだ者の名前。死因の届けに書かれた言葉。そして、金額。
一八三一年 サマーヴィル男爵 胃の病 届出医グレイブ 三百ギニー
一八三三年 レディ・アークロイド 胃の病 届出医グレイブ 二百ギニー
一八三四年 ダーウェント伯爵 胃の病 届出医グレイブ 五百ギニー
一八三五年 ヘンリー・ラスボーン氏 胃の病 届出医別 四百ギニー
指が止まった。
一八三四年。ダーウェント伯爵。ルシアンの父だ。
金額の横には、二文字だけ書き添えてあった。
「H・Dより受領」
それが誰のことなのか、オーガスタにはすぐには分からなかった。
帳面の最後の頁には、走り書きが一行だけあった。
「金はすべてホルブルックへ入る」
*
店を出たとき、空は灰色だった。
セブン・ダイヤルズの広場は、いつもどおり人でごった返している。古着売り、パイ売り、酔っぱらい。
三十歩ほど歩いたところで、フローラが袖を引いた。
『ママ。あの人、お店の前からずっといる』
振り向かずに、オーガスタは店の窓ガラスに目をやった。
ガラスに、後ろの通りが映っている。
鳥打帽の男が一人。背は低い。ぼろの上着。パイ売りの屋台の前に立っているが、買う気配はない。
「フローラ。遊びをしましょう」
『遊び?』
「そう。今から、わたしの手をぎゅっと握って、絶対に離さないで。振り向かないで。走らないで、でも早く歩くの。できる?」
フローラは、母親の顔を一度だけ見上げた。それから、うなずいた。
『できる』
二人は、七本の道のうち、いちばん細い道に入った。
洗濯物が頭の上に垂れ下がり、道は人と荷車でふさがれている。突き当たりを右。それから、酒場の裏の路地へ。オーガスタは、この界隈を十年歩いている。貧しい家の子どもを診に、何百回も通った道だ。
古着屋の店先で、女に一枚の銅貨を渡した。
「後ろから男が来たら、この布をかぶせて座らせておいて」
女はにやりと笑って、二人を樽の陰に押し込んだ。
足音が通り過ぎた。
男が、道の向こうで立ち止まり、きょろきょろと首を回している。風向きが変わったとき、その匂いが届いた。
酢。それに混じった、甘くて重い、腐ったような匂い。
エドワードが言ったとおりの匂いだった。解剖室の匂いだ。
フローラが、母親の手を強く握った。震えてはいなかった。ただ、力いっぱい握っていた。
男が別の道に曲がっていくまで、二人は樽の陰から動かなかった。
*
グリーク街の家に戻ったのは、昼を過ぎたころだった。
玄関の扉が、半分開いていた。
錠のあたりの木が、割れて白くなっている。
「フローラ。ここにいて」
オーガスタは道具鞄からいちばん大きなメスを取り出し、扉を押した。
中は、ひどいものだった。
棚は倒れ、抽斗は全部引き抜かれて床に転がっている。寝台の布団は切り裂かれ、綿がそこらじゅうに散っていた。台所の小麦粉の袋まで裂かれ、白い粉が床一面に積もっている。
夫の医学書は、背表紙を割られて投げ捨てられていた。何ページも破り取られたものもある。
人の気配はなかった。もう行ったあとだ。
フローラが、指示を破って入ってきた。そして、床に膝をついた。
『パパの本…』
そう言って、初めて泣いた。
自分の靴が土足で踏まれていても、リボンが粉まみれになっていても、この子は泣かなかった。父親の本のところで、声を上げて泣いた。
オーガスタは、床に散った紙を一枚ずつ拾った。拾いながら、背中が冷たくなっていくのを感じた。
今朝、フィンチの店に行っていなければ。
この家のどこかに帳面があったなら、今ごろそれは、あの男たちの手にあった。
外で、馬車が止まる音がした。
扉の枠に、痩せた長身の影が立った。ペンローズだった。禿げた頭に雨粒が光っている。
『ミセス・ヘイル』
惨状を見ても、その声はいつもと同じ調子だった。
『旦那様のお言いつけで参りました。六年前、先代様がお亡くなりになったときの、医者への支払いの控えでございます』
ペンローズは、汚れていない場所を探すように床を見て、それから諦めて、革の書付を差し出した。
『二人分ございました。一人はドクター・フィニアス・グレイブ。診療の礼として十五ギニー』
「…もう一人は」
『相談に応じた外科医として、二百ギニー。お名前は、サー・エドマンド・キャロウ様でございます』
第六章 了
── 第6章 おわり ──