
第5章
ワルツの練習
音楽が始まっても、オーガスタの耳には何も入ってこなかった。
ヴァイオリンが鳴っている。淑女たちがうっとりと目を閉じている。けれどオーガスタが見ていたのは、三列前に座った銀色の後頭部と、その隣で扇を使っている白い頬ひげの男だった。
キャロウとグレイブは、一度も言葉を交わさなかった。目も合わせなかった。
それが、かえっておかしいと思った。同じ病院にも出入りする医者同士が、同じ部屋にいて一度も目を合わせないということが、あるだろうか。
隣で、ルシアンが小さな声で言った。
『父が死んだとき、屋敷に来た医者は二人だ』
「…え」
『グレイブと、もう一人。名前を思い出せない。私は当時二十八で、葬式と相続の手続きで頭がいっぱいだった』
「調べられる?」
『屋敷に医者への支払いの帳簿がある。明日、探させよう』
音楽が高くなった。
ルシアンは前を向いたまま、口だけを動かした。
『それから、もう一つ。キャロウという男は、私の父の葬儀に花を送ってきた。六年前だ。面識はないはずなのにな』
*
帰りの馬車で、雨が降りだした。
窓の外を、街灯の明かりが一つずつ後ろへ流れていく。向かいに座ったルシアンは、腕を組んで黙っていた。
「なぜ、名前にこだわるの」
オーガスタは訊いた。
「家の名前。ダーウェント家の名。あなたは、それを守るためなら、叔父さんを殺した犯人を警察に渡さないとまで言った」
『答えたら、君は私を嫌いになるか』
「もう嫌いよ。今さらだわ」
ルシアンは、笑わなかった。しばらく窓の外を見てから、ぽつりと言った。
『十六のとき、母が死んだ。胸を病んでいた。葬式の日、父は議会にいた。採決があるから、と』
オーガスタは黙っていた。
『弟はまだ四つで、棺の前でわあわあ泣いていた。私は泣かなかった。泣いたら、召使いたちに見られるからだ。ダーウェント家の跡取りは、人前で泣かない』
雨が、屋根を叩いている。
『名前というのは、そういうものだ。人を守るし、人を縛る。父は名前に縛られて死ぬまで家に帰らなかった。私は名前に守られて、二十八で伯爵になれた。使用人百二十人が食っていける。どちらも同じ一つのものだ』
「…お母さまのお葬式で、泣けばよかったのに」
『今さら言うな』
そう言った声が、ほんの少しだけ、揺れた。
オーガスタは、窓のほうを向いた。見ないふりをしてやるのが、この男には一番いいような気がした。
『君はなぜ、医者になった』
「なってないわ。なれないもの、女は」
『言い方を変えよう。なぜ、人の体を切れるようになった』
オーガスタは少し迷って、それから答えた。
「父がエディンバラで解剖を教えていたの。わたしは五つのときから、その部屋にいたわ。ほかに預ける場所がなかったのね。子どもは怖がると思うでしょう。でもわたしは、体の中は、時計の中に似ていると思ったの。歯車の代わりに、血と筋と骨が詰まってる。父が一つずつ名前を教えてくれた」
『変わった子どもだな』
「そうよ。友達は一人もいなかったわ」
言ってから、自分でおかしくなって笑った。
ルシアンが、こちらを見ていた。
『君は、恋人のふりをしているときより、その顔のほうがいい』
「…触らないって約束、忘れないでよ」
『触っていない。見ているだけだ』
馬車が、グリーク街に入った。
雨の中、家の二階の窓に、小さな明かりが一つ灯っていた。
窓に、蜂蜜色の巻き毛の影が映っている。待っているのだ。何時になっても、あの子は寝ない。
『…いいものだな』
ルシアンが、窓を見上げて言った。
『帰る家に、明かりがついているというのは』
オーガスタは答えなかった。
グローヴナー・スクエアの大きな屋敷には、蝋燭が何百本も灯っている。けれど、伯爵を待って起きている人間が一人でもいるのかどうか、それは分からなかった。
「おやすみなさい、伯爵」
『ルシアンでいい。恋人なのだから』
「…おやすみなさい、ルシアン」
*
扉を開けるより先に、階段を駆け下りる音がした。
『ママーっ! おかえりなさい! どうだった!? どうだった!?』
「ずぶ濡れよ。抱きつかないで…もう、遅い」
フローラは構わずに飛びついてきた。寝間着の上に、母親の古いショールを羽織っている。水色のリボンは、まだ髪に結んだままだった。
『音楽会、どうだった? お菓子出た? ドレスの人いっぱいいた? 伯爵さま、ちゃんとエスコートしてくれた?』
「一つずつ聞きなさい」
オーガスタは濡れたドレスの肩を拭きながら、椅子に座った。
「お菓子は出たわ。砂糖のお城みたいなのが、テーブルの真ん中に。孔雀の羽根を三本も髪に挿したご婦人がいて、前の席の人が全然見えないって怒ってた。それから、みんながわたしをじろじろ見たわ」
『どうして?』
「新聞に書かれた女だから」
『すごぉい。ママ、有名人じゃない』
「よくないのよ、それは」
けれどフローラは、もう聞いていなかった。椅子から立ち上がって、母親のドレスの裾をそっと持ち上げている。
『きれい…。灰色みたいな、青みたいな。動くと色が変わるの』
「マダムが、目の色に合わせたんですって」
『ママの目、きれいだもんね。わたしもおんなじ色なんだよ』
オーガスタの喉の奥が、少し詰まった。
この子は、父親に似ていない。目も髪の色も、母親から受け継いだ。夫が生きていたら、なんと言っただろう。
「フローラ」
「踊れる?」
『えっ』
「ワルツよ。教えてあげる。今夜、誰も踊ってなかったの。音楽会だったから、みんな座ってただけ」
フローラの顔が、ぱっと明るくなった。
狭い部屋だった。椅子を隅に押しやって、机をどけても、二人が回れるのがやっとだ。
オーガスタは、娘の右手を取り、左手を背中に回した。
「一、二、三。一、二、三。わたしの足を見ないで。顔を上げるの」
『むずかしぃ…』
「大丈夫。わたしも下手よ」
歌った。若いころ、エディンバラの下宿で聞き覚えたワルツだ。音程は怪しかった。
フローラは三回、母親の足を踏んだ。四回目に、踏まずに回れた。
『できた! ママ、できたよ!』
「上手よ。あなたが初めて舞踏会に出るときは、もっと上手になってる」
『わたし、出られるの? ほんとに?』
「出られるわ」
言ってしまってから、胸が痛くなった。
医者の娘だ。しかも、免許のない女の娘だ。母親が捕まれば、この子に開く扉は一つもなくなる。
それでも、言ってしまった。
踊り疲れて、フローラは床の絨毯に座り込んだ。
『ねえママ。パパも、ワルツ踊れた?』
「下手だったわ。すごく。足が二本とも右足みたいだった」
『ふふっ。覚えてないんだ、わたし。顔も、ちょっとしか』
「九つのときだものね」
『パパって、どんな人だった?』
オーガスタは、しばらく答えなかった。
壁ぎわに置いた古い道具鞄を見た。革が擦り切れて、留め金の金具が曇っている。
「わたしの手を、褒めてくれた人よ」
『手?』
「そう。世の中の人は誰も、女の手を褒めたりしないの。白いとか、小さいとか、そういうことは言うわ。でもパパは、わたしの手を見て言ったの。『この手は、人を助けるためにできている』って」
言葉にしたら、三年前の台所の匂いまで戻ってきた。
フローラは立ち上がって、母親の手を両手で包んだ。冷えた手に、小さな熱が伝わった。
『じゃあ、わたしが代わりに言う。ママの手は、人を助けるためにできてます』
オーガスタは、娘の頭に顎を載せた。
そうしていれば、顔を見られずに済む。
*
フローラが寝てから、オーガスタは蝋燭を持って、道具鞄の前にしゃがみこんだ。
中には、夫の器具が入っている。柄の擦り切れたメス。鉗子。針。三年間、洗って、研いで、使ってきた。
帳面。キャロウはそう言った。ジョナサンが残した帳面。
そんなものは見たことがない。家中の引き出しを、葬式のあとに全部開けた。医学書の間も振った。何も出てこなかった。
ならば、家にはない。
蝋燭の火が、ゆらりと揺れた。
そのとき、忘れていた声が耳の奥で鳴った。
死ぬ二か月ほど前だった。夜中に帰ってきた夫が、玄関で靴も脱がずに立ったまま、妙に改まった顔で言ったのだ。
『オーガスタ。もし私に何かあったら、ナサニエルのところへ行きなさい』
あのときは、薬代のつけの話だと思った。夫は照れ屋で、お金の話をするときはいつも変な顔をしたから。
そう思って、笑って、お茶を淹れた。
オーガスタは蝋燭を握ったまま、しばらく動けなかった。
三年間、一度も訊かなかった。
明日の朝、いちばんに行こう。
第五章 了
── 第5章 おわり ──