
第4章
ボンド街の針
「痛っ」
針が、脇腹に刺さった。
『あらぁ、ごめんなさいねぇ、マ・シェリ。でも、動くあなたが悪いのよ』
火曜日の朝。ボンド街の仕立て屋「メゾン・ボーモン」の奥の部屋で、オーガスタは下着一枚にされて台の上に立たされていた。まわりを三人のお針子が取り囲み、ピンを刺したり、布を当てたりしている。
店の主、マダム・セリーヌ・ボーモンは、四十を少し過ぎた背の高い女だった。黒い髪を高く結い上げ、こめかみに一筋だけ銀色の髪が走っている。唇は濃い赤。黒い目が、獲物を見つけた猫のように細くなる。
ロンドンの淑女で、この店のドレスを欲しがらない者はいない。そう聞いたことがある。
『じっとしてて。明日の夜までに一着仕上げるのよ。奇跡を起こすには、あなたの協力がいるの。ヴォワラ、ここにもう一本』
「明日の夜までに、本当にできるの?」
『できるわよぉ。伯爵さまが、お代を三倍払うっておっしゃったもの。お金は奇跡の親よ、マ・シェリ』
マダムはからからと笑った。
オーガスタは、この女をどう思えばいいのか分からなかった。明るくて、よく喋る。けれど、目だけが笑っていない。そう感じた。
部屋の隅では、フローラが布の山に埋もれていた。
昨日の帰りに買った赤い靴を履いている。ボタンが片方に六つずつ、全部で十二個並んだ靴だ。朝から三回は、足を上げて眺めている。
『ママぁ、見て、この布! 光に当てると、青から銀色に変わるの。すごい、すごぉい…』
「触っちゃだめよ。高いんだから」
『あら、いいのよぉ、お嬢ちゃん。好きなだけ触りなさい。布はね、触ってもらって喜ぶの』
マダムは、フローラの巻き毛に、細い水色のリボンを一本結んでやった。
『はい、これはあなたの。お母さまがきれいになる日の記念』
フローラは、息をするのも忘れたような顔で、鏡の前に走っていった。
「…ありがとう、マダム」
『どういたしまして』
マダムは、オーガスタの腕を持ち上げて、袖の長さを測った。それから、手のひらを裏返した。
右手の人差し指の横。親指の付け根。何年も同じ道具を握ってきた者にしかできない、硬いたこがある。
『まあ』
マダムの目が、きらりと光った。
『これ、針仕事のたこじゃないわねぇ。もっと重たいものを、毎日握ってきた手』
オーガスタは手を引っこめた。
「夫の道具を、片づけていただけよ」
『そう? 仕立て屋はね、体を見れば、その人が何をしてきたか分かるのよ。嘘をついても、肩と手は正直なの』
「…何が言いたいの」
『なんにも』
マダムはにっこり笑った。
『ただね、あなたが鍵穴の赤毛の未亡人だってことくらい、この店のお針子なら誰でも知ってるわ。ペンローズさんが、一昨日の夜のうちに、あなたの寸法を聞きに見えたもの。お得意さまの秘密は、この店の外には出さない。それがわたしの決まりよ』
一昨日の夜。日曜日の夜だ。伯爵がオーガスタの家に来たのは、月曜の朝だった。
ペンローズは、伯爵が話を持ちかける前から、ドレスの支度を始めていた。
どういうことだろう。そう思った。
そのとき、お針子の一人が、裁ち鋏を床に落とした。
鋏はマダムの足もとに落ち、マダムは思わず指を針で深く刺した。
『ちくしょうめ、気ぃつけな!』
部屋の空気が、止まった。
下町の、魚市場の女たちのような言葉だった。フランス訛りはどこにもなかった。
マダムは、刺した指をくわえて、にっこり笑い直した。
『あらやだ、はしたない。ロンドンに長くいると、うつるのよねぇ。パルドン、マ・シェリ』
お針子たちは、何も聞かなかったような顔で手を動かし続けた。
オーガスタも、何も聞かなかったような顔をした。
*
水曜日の夜。バークリー・スクエアのペンバートン邸。
広間には、蝋燭が何百本も灯っていた。壁ぎわにずらりと並んだ椅子に、宝石をつけた淑女たちが座っている。奥ではピアノとヴァイオリンが、客が揃うのを待っていた。
オーガスタは、ルシアンの腕に手を置いて広間に入った。
ドレスは、灰色がかった青の絹だった。マダムは「瞳の色に合わせたの」と言った。肩が出すぎていて、寒い。
広間に入った瞬間、ざわめきが、さざ波のように広がった。
扇の陰で、ひそひそ声が飛び交う。あの人よ。鍵穴の。赤毛の未亡人。本当に伯爵さまと。
「みんな、見てるわ」
『見せに来たんだ。胸を張れ』
ルシアンは、前を向いたまま小声で言った。
『それから、そんな怖い顔をするな。恋人の顔をしろ』
「恋人の顔って、どんな顔よ」
『知らん。私にも恋人はいたことがない』
オーガスタは、思わず吹き出しそうになった。
伯爵は、ほんの少しだけ口の端を上げた。初めて見る顔だった。
「…笑えるのね、あなた」
『まあまあまあ! ダーウェント伯爵! ようこそ、ようこそ!』
主催のレディ・ペンバートンが、丸い体をゆすって駆け寄ってきた。六十近い、ふくよかな夫人だった。銀色の髪に、孔雀の羽根を三本も挿している。
『そして、こちらが! まあ! 噂の! あらやだ、わたしったら』
「オーガスタ・ヘイルです。今夜はお招き、ありがとうございます」
『ヘイル? まあ、ヘイル夫人! ご主人は、もしかしてお医者さまの?』
「外科医でした。三年前に亡くなりましたけど」
『まあまあ、お気の毒に! でも、今夜は楽しんでちょうだいね。女王さまとアルバート殿下のご成婚から、もう二か月半。今年の社交界は、どこもかしこも恋のお話ばっかりなのよぉ』
二月に、若い女王がドイツの公子と結婚した。ロンドン中が、まだその話で浮かれている。
レディ・ペンバートンは、扇をぱちんと閉じて振り返った。
『そうそう、ヘイル夫人。お医者さまのお知り合いなら、ぜひご紹介したい方がいるの。サー・エドマンド! サー・エドマンド、こちらへ!』
人垣の向こうから、一人の男が静かに歩いてきた。
五十を少し過ぎたくらいだろうか。細身で、背筋がまっすぐに伸びている。銀色の髪を短く整え、顔には皺がほとんどない。目は、薄く淹れた紅茶のような、明るい茶色だった。
何より目を引いたのは、手だった。指が長く、白く、爪の先まで美しい。
レディ・ペンバートンが、うっとりした声で紹介した。セント・ジョージ病院の外科部長で、王立外科医師会の次の会長になる方だという。
オーガスタは、膝を少し折って挨拶した。
「はじめまして」
『はじめまして、ヘイル夫人。エドマンド・キャロウです。会長の話は、まだ決まってはおりませんが』
男の声は低く、柔らかかった。少しも大きくならない。
『ジョナサン・ヘイル君の奥さまでしたか。ご主人のことは、よく覚えています』
キャロウは、オーガスタの手袋の手を取り、軽く頭を下げた。
『見事な外科医でした。とくに、亡くなる前の二年ほどは』
「…ありがとうございます」
『まるで、別人の手のようでした』
オーガスタの背中が、ぞくりとした。
キャロウの顔は、穏やかに笑っていた。そのとき、キャロウの親指が手袋の上から、オーガスタの人差し指の横をすっとなぞった。
たこのある場所だった。
隣で、ルシアンの腕がわずかに固くなった。
「夫は、晩年に腕を上げました。努力家でしたから」
『ええ、きっとそうでしょう』
キャロウは手を離した。そして、ごく自然な調子で付け加えた。
『近いうちに、ぜひ一度お話をさせてください。ご主人が残された帳面のことで』
「帳面?」
『おや。ご存じありませんでしたか』
キャロウは、少しだけ首をかしげた。
『ご主人は亡くなる前、ある帳面をつけていました。私はそれを、ずっと探しているのです』
ピアノが鳴り始めた。
広間の客たちが、椅子へと戻っていく。
キャロウは一礼して、人の波の中へ消えた。その先に、赤ら顔に白い頬ひげの男が立っているのが見えた。
ドクター・グレイブだった。
第四章 了
── 第4章 おわり ──