オリジナルノベル
挿絵

第3章

恋人のふり

扉を叩く音は、大家のときよりずっと静かだった。

二回。間を置いて、もう一回。

開けると、ルシアン・ダーウェントが立っていた。今朝は燕尾服ではなく、濃い灰色のコートを着ている。後ろの通りには、紋章を布で隠した黒い馬車が止まっていた。

伯爵は何も言わずに、右手の刷り物を突き出した。

今朝の『鍵穴』だった。

『君か』

「違うわ」

『あの夜、裏口から入った女は君だけだ。書かれて得をするのも、君だけだ』

「得?」

オーガスタは思わず笑った。笑うしかなかった。

「伯爵。わたしが話したら、どうなると思う? 免許のない女が伯爵家で人を切ったと、自分で言いふらすことになるのよ。牢屋に入るのは、わたしなの。娘を置いて」

伯爵は黙った。

緑の目が、狭い部屋の中をゆっくり動いた。擦り切れた絨毯。夫の古い医学書の棚。壁にかかった、小さな女の子の靴下が二足。

『…入ってもいいか』

「どうぞ。椅子は二つしかないけど」

伯爵は椅子に座らなかった。立ったまま、部屋の真ん中で帽子を手に持っている。背が高すぎて、天井の梁に頭をぶつけそうだった。

奥の部屋の扉が、指一本分だけ開いている。フローラが覗いているのだろう。そう思った。

「話したのはわたしじゃない。でも、あなたに見せなきゃいけないものがあるわ」

オーガスタは布の包みを開いた。

白い皿。真ん中に、黒く光る染み。

「昨日、薬屋で調べたの。あなたの叔父さんの寝酒のカップの横にあった、スプーンの粉よ」

伯爵の眉が、ぴくりと動いた。

『スプーン? 屋敷から、持ち出したのか』

「持ち出したのは娘よ。怒るなら、わたしを怒って」

『…続けろ』

「この黒い染みは、ヒ素が入っているときにだけ出るの。何も入れないで試したときは、何も出なかった。量も多い。薬を間違えて飲んだ量じゃない」

一度、息を吸った。

「あなたの叔父さんは、殺されたのよ。誰かがカップにヒ素を入れた」

伯爵は、皿を見たまま動かなかった。

長いあいだ、何も言わなかった。

それから、ぽつりと言った。

『知っていた』

「…え?」

『知っていた、とは言いすぎだな。そうではないかと思っていた。叔父は死ぬ前の日の昼に、私にこう言った。「明日の夜、舞踏会が終わったら話がある。お前の父親のことだ」とな』

「お父さまの?」

『父は六年前、一八三四年に死んだ。胃の病で。叔父と同じだ』

部屋が静かになった。

表の通りで、牛乳売りの声が遠く聞こえた。

「なら、調べるべきよ。警察に…」

『警察は呼ばない』

「どうして!」

思わず声が大きくなった。

「叔父さんが殺されたのよ。お父さまだって、もしかしたら…。なのに、家の名前のほうが大事なの?」

『大事だ』

伯爵は、あっさりと言った。

『警察が入れば、新聞が書く。「ダーウェント家で毒殺」。そうなれば、弟の縁談は消える。屋敷と領地で働く百二十人の使用人は、毒殺の家に仕える者として見られる。叔父を殺した者は、騒ぎの陰に隠れて逃げる。何一つ、いいことはない』

「だから黙っているの?」

『だから、自分で調べる』

伯爵は、初めてまっすぐにオーガスタを見た。

『君にも、手伝ってもらう』

伯爵の話は、驚くほどはっきりしていた。

『鍵穴は、君を私の恋人だと書いた。それを本当にする。ふりだけだ』

「…は?」

『考えてみろ。「伯爵家の台所で、免許のない女が人を切った」。これは罪だ。君は捕まる。だが、「伯爵が未亡人の恋人を屋敷に呼んだ」。これはただの噂だ。社交界は一か月楽しんで、すぐに忘れる。誰も捕まらない』

オーガスタは、しばらく口がきけなかった。

女が人の命を救えば罪になる。男と密会すれば、ただの笑い話で済む。

ばかげた国だ、と思った。けれど伯爵の言うとおりだった。

『私の恋人なら、君は毎日屋敷に来られる。弟の傷を診られる。舞踏会の夜に屋敷にいた客たちの家にも、私と一緒に出入りできる。叔父に毒を盛った者は、あの夜の客か、使用人の中にいる』

「わたしに、犯人を探せって言うのね」

『毒を見分けられるのは君だけだ。グレイブは胃の病と書いた。死亡の届けにも、そう書いて出した』

「お代は?」

自分でも驚くほど、すぐに口から出た。

「わたしはただでは働かないの。一週間に五十ギニー。それと、秘密を一つ」

『五十ギニーは払う。秘密は、さっき話した。叔父が死ぬ前に何を言ったか。父の死のこと。あれは、まだ弟にも話していない』

オーガスタは、少し考えた。

確かに、それは秘密だった。伯爵家の当主が、父親の死を疑っている。『鍵穴』なら、百ポンド出しても買うだろう。

「…いいわ。でも条件がある」

『言え』

「娘を巻き込まないこと。娘の前で、わたしを恋人扱いしないこと。それから」

オーガスタは指を一本立てた。

「わたしに触らないこと。ふりでもね」

『手袋ごしに手を取るのもか。社交界では、それをしない恋人はいない』

「…手袋ごしなら、許すわ」

『決まりだ』

「言っておくけど、わたし、あなたのことは好きじゃないわ」

『知っている。顔に書いてある』

「なら、話が早いわ」

奥の扉が、ばたんと開いた。

『ママ! ママぁ! 伯爵さまの恋人になるの!? ほんとに!?』

「ふりよ! ふり! 聞いてたんでしょ、全部!」

『聞いてたぁ! じゃあ、ドレス着るの? 舞踏会、行くの?』

フローラは跳ねるように母親の腕にしがみついた。頬が真っ赤だった。

「ドレスなんて、うちには一着もないわよ」

伯爵は、帽子をかぶり直した。

『明後日の夜、レディ・ペンバートンの屋敷で音楽会がある。そこが最初の舞台だ。ドレスは、ボンド街のマダム・ボーモンに作らせる。明日の朝、店に行け。話は通しておく』

「明後日? ドレスが二日でできるわけ…」

『マダムならできる。金さえ払えばな』

伯爵は扉に手をかけて、振り返った。

『それから、今日の午後、屋敷に来てくれ。エドワードが熱を出している』

*

ダーウェント邸の二階の客間で、エドワードは汗をかいて寝ていた。

金色の髪が枕に貼りついている。額に手を当てると、熱い。けれど、傷のまわりは赤く腫れてはいなかった。膿んではいない。

「大丈夫。傷が治ろうとしている熱よ。水をたくさん飲んで、よく眠ること」

『先生、かぁ…』

エドワードは、へらりと笑った。

『参ったなぁ。女の先生に腹を縫われたなんて、クラブの連中に言っても、誰も信じないよなぁ』

「言わないで。言ったら、わたしが捕まるの」

『言わない、言わないって。命の恩人だもんなぁ』

伯爵は戸口で腕を組んでいた。エドワードは、兄のほうをちらりと見た。

『兄上。先生と二人にしてくれないか。その…包帯を替えるところ、見られたくないんだよ。恥ずかしいだろう』

伯爵は少し眉をひそめたが、黙って出ていった。

扉が閉まった。

エドワードの顔から、笑いが消えた。

『先生。兄上には言わないでくれ。叔父上に、兄上にだけは知られたくないって、頼まれてたんだ』

「何を?」

『あの夜、俺が庭に出たのは、酔いを覚ますためじゃない。叔父上に頼まれて、東屋で男と会う約束だったんだ。包みを一つ、受け取るだけのはずだった』

「その男に、刺されたの?」

『違う。約束の男は来た。包みを出しかけた。そのとき、後ろから別の男が来て、俺を刺した。包みを奪って、二人とも逃げた。暗くて、顔は見てない』

エドワードは、息を整えた。

『ただ、刺したほうの男…妙な臭いがした。酢と、腐った肉みたいな臭いだ』

オーガスタの背中を、冷たいものが這い上がった。

その臭いを、知っている。

子どものころ、エディンバラの父の仕事場で、毎日嗅いでいた臭いだ。

死体を切り開いて調べる部屋。解剖室の臭いだった。

第三章 了

── 第3章 おわり ──

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ボンド街の針
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