オリジナルノベル
挿絵

第2章

黒い鏡

どん、どん、どん。

扉が、今にも外れそうな勢いで叩かれた。

「ミセス・ヘイル! いるのは分かってんだよ!」

日曜日の朝だった。ソーホー、グリーク街。二階建ての細長い家の一階で、オーガスタは椅子の上で目を覚ました。昨夜は着替えもせずに眠ってしまったらしい。膝の上に、道具鞄が載ったままだった。

「開けな! 今日という今日は、あたしも引かないからね!」

大家のモーリーン・ドイルだった。アイルランド生まれで、腕は丸太のように太く、赤い頬に白髪まじりの茶色い髪を大きく結い上げている。声は、通りの端まで届く。

オーガスタは、この大家が嫌いではなかった。ただ、今月だけは会いたくなかった。

扉を開けると、ミセス・ドイルは両手を腰に当てて立っていた。

『二か月だよ、二か月! 月に二ポンド、合わせて四ポンド。あんたねぇ、あたしだって慈善でやってんじゃないんだ。今日払えないなら、今週中に出てってもらうからね!』

「払うわ」

『そう言って、先月も…』

オーガスタは金貨を四枚、大家の手のひらに載せた。ソヴリン金貨。一枚で一ポンドだ。

ミセス・ドイルの口が、ぽかんと開いた。

『…あんた、どこの銀行を襲ってきたんだい』

「働いたのよ。一晩」

『一晩で四ポンド? あんたの仕事はいったい何なんだい』

「縫いものよ」

嘘ではない。

大家は金貨を一枚ずつ噛んで確かめてから、急に機嫌よく笑った。

『そんならいいさ。坊やの…じゃない、嬢ちゃんの靴、新しいのを買っておやり。こないだ、つま先が破れてたよ』

扉が閉まった。

奥の部屋から、フローラが顔を出した。寝ぐせで、巻き毛が四方に跳ねている。

『ママぁ…ほんとに靴、買ってくれるの?』

「明日ね。今日は日曜だから、お店が開いてないわ」

『やったぁ! 赤いのがいいなぁ。ボタンがいーっぱい並んでるやつ!』

「その前に、ひとつ用事があるの」

オーガスタは道具鞄を開けた。一番底から、ハンカチの包みを取り出す。

中には、銀のスプーン。先に、白い粉がこびりついたままだ。

フローラの笑顔が、すっと消えた。

*

セブン・ダイヤルズは、グリーク街から歩いて五分の広場だ。七本の細い道が、一本の柱のところで交わっている。日曜の朝なのに、もう古着売りと酔っぱらいが道にあふれていた。

広場の角に、小さな薬屋がある。看板には「フィンチ薬局」とあった。

店主のナサニエル・フィンチは、四十をいくつか過ぎた小柄な男だった。砂色の髪は薄くなりかけ、丸い眼鏡の奥で、茶色の目がいつも瞬いている。死んだ夫の古い友人で、夫が死んでからも、薬代のつけを黙って待ってくれている。オーガスタがロンドンで頼れる、数少ない男の一人だった。

「ナサニエル。ヒ素を調べたいの」

『ヒ、ヒ素? き、き、君、また誰かに頼まれて…』

興奮すると言葉がつかえる。いつものことだ。

「頼まれてはいないわ。自分で調べたいの。四年前に見つかったやり方、知ってる?」

『マ、マーシュの方法かい。知ってるさ。道具もある。でも、それは…何に付いてたんだい』

「言えない」

『言えないって、君…』

「言えないの。お願い」

フィンチは眼鏡を外して、しばらく布で拭いた。それからため息をついて、店の奥の扉を開けた。

奥の部屋には、ガラスの瓶と管がごちゃごちゃと並んでいた。

フィンチは、手を動かしながら説明した。説明しながらでないと、怖くて手が震えるのだと、前に笑って言っていた。

『い、いいかい。瓶に亜鉛のかけらを入れて、酸をそそぐ。そうすると、泡が出る。この泡は火をつけると燃える気体だ。そこに、調べたい粉を混ぜる。粉にヒ素が入っていれば、気体にもヒ素が混ざる』

「それで?」

『管の先で火をつけて、冷たい白い皿をかざす。ヒ素があれば、皿に黒くて、ぴかぴか光る染みがつく。鏡みたいなね。なければ、何もつかない』

「つまり、あるかないか、目で見て分かるのね」

『鏡って、お顔が映るの?』

フローラが、テーブルの端から首を伸ばした。

「映るほどきれいじゃないでしょうね」

『へへっ、そのとおり。でも、見れば一目で分かるよ、お嬢ちゃん』

「先に、スプーンなしでやって」

オーガスタは言った。

「亜鉛や酸に、もともとヒ素が混ざっていたら意味がないわ。何も入れないで一回。それから、スプーンの粉で一回」

フィンチは、にやりと笑った。

『ジョ、ジョナサンと同じことを言うね』

一回目。

管の先に、小さな青白い火がともった。フィンチが白い皿をかざす。

十数えた。二十数えた。

皿は、白いままだった。

二回目。

オーガスタはスプーンの先の粉を、小刀でこそげ落とした。耳かき一杯ほどもない。それを瓶に落とす。

火がともる。皿がかざされる。

五つ数えたところで、皿の真ん中が、じわりと曇った。

曇りは黒くなり、広がり、やがて蝋燭の光を跳ね返して、ぎらりと光った。

黒い鏡。

『わぁ…』

フローラが小さく声を上げた。それから、慌てて口を押さえた。

部屋が、しんとなった。

「ナサニエル」

『ヒ素だ』

フィンチの声は、もうつかえていなかった。

『それも、かなり多い。オーガスタ。これは、薬を間違えて飲んだ量じゃないよ』

「分かってる」

「分かってるわ」と、もう一度言った。自分に言い聞かせるように。

ホレス・ダーウェントは、胃の病で死んだのではない。誰かが、寝酒のカップにヒ素を入れた。

殺されたのだ。

フィンチは皿を布で包んで、オーガスタに差し出した。

『持っていくといい。これは証拠になる。ただ、誰に見せるかはよく考えることだ』

「ありがとう。お代は…」

『いらないよ。ジョナサンのときも、もらわなかった』

オーガスタは手を止めた。

「ジョナサンのとき?」

『あれ、知らなかったのかい』

フィンチは眼鏡を押し上げた。

『亡くなる少し前、一八三七年の春だったかな。君のご主人も、ここで同じことを頼んだんだ。瓶に入った水薬を持ってきてね。何に使ったのかは、とうとう言わなかった』

オーガスタは、何も答えられなかった。

夫が、ヒ素を調べていた。

そんな話は、一度も聞いたことがない。

*

翌朝、月曜日。

オーガスタが目を覚ますより先に、フローラが表から駆け込んできた。手に、薄い刷り物を握っている。

『ママ! ママぁっ! 起きて!』

「なに…靴屋はまだ開いてないわよ…」

『違うの! これ! 新聞売りのおじさんが叫んでたの。「伯爵邸の秘密だよ」って。一ペニーで買っちゃった!』

ロンドンで一番読まれている噂新聞、『鍵穴』だった。書いた者の名前は、どこにもない。記事の最後に、いつも「鍵穴夫人」とだけ署名がある。

オーガスタは、フローラが指さした記事を読んだ。

[『鍵穴』一八四〇年四月二十七日号より]

四月二十五日の夜、グローヴナー・スクエアのさる伯爵邸で、春の舞踏会が華やかに開かれた。しかし鍵穴は、広間ではなく、屋敷の地下を覗いていた。

その夜、使用人の出入口から、赤毛の未亡人と小さな娘が招き入れられた。二人は夜更けまで屋敷を出なかった。

独り身の伯爵閣下。この未亡人は、閣下の秘めた恋のお相手か。それとも、もっと恐ろしい秘密の持ち主か。

鍵穴は、見ている。  鍵穴夫人

読み終えたとき、指先が冷たくなっていた。

あの夜、裏口から入ったのは知っている者だけだ。ペンローズ。従僕が四人。馬車の馭者。グレイブ。伯爵。

その中の誰かが、鍵穴夫人に話した。

あるいは、あの屋敷の中に、鍵穴夫人本人がいる。

表の通りで、馬車の止まる音がした。

第二章 了

── 第2章 おわり ──

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