
第1章
階下のワルツ
頭の上で、ワルツが鳴っていた。
一八四〇年四月二十五日、土曜日の夜。ロンドン、グローヴナー・スクエア。ダーウェント伯爵家の屋敷では、春の舞踏会が開かれている。二階の大広間で、およそ二百人の紳士淑女が踊っている。
その真下、地下の台所で、オーガスタ・ヘイルは若い男の脇腹を切り開いていた。
袖を肘までまくり、濃い赤茶の髪を後ろで固く結んでいる。三十三歳。灰色の目は、傷口から一度も離れない。
「押さえて。肩と足、両方よ」
男が暴れた。樫の大きな調理台が、床の上でずれた。従僕が四人がかりで押さえつける。
男の名はエドワード・ダーウェント。二十二歳。金色の髪が、汗で額に張りついている。この家の当主の弟だ。四十分ほど前、舞踏会の最中に庭で何者かに刺された。
『ママ、ランプ、もっと近く?』
娘のフローラが、真鍮のランプを両手で持ち上げた。十二歳。蜂蜜色の巻き毛を、今夜は急いで布でまとめてある。目は母親と同じ灰色だ。顔は真っ白なのに、手は震えていない。
「もう少し右。そう、そこ。動かないでね、フローラ」
『動かないわよぉ。わたし、ママの娘だもん』
強がりだ。声が少し裏返っていた。
傷の奥で、何かが光った。
ナイフの刃先だった。折れて、体の中に残っている。長さは親指の先ほど。
その刃先のすぐ向こうで、太い血の管が脈を打っている。
抜き方を一つ間違えれば、血が噴き出す。そうなったら三分ももたない。
「ブランデー、もう一杯飲ませて」
『もう三杯目でございます』
答えたのは、この家の執事アーサー・ペンローズだった。背が高く、頭には髪が一本もない。薄い青の目は、血だらけの調理台を前にしても少しも揺れなかった。ソーホーの家までオーガスタを呼びに来たのも、この男だ。
「なら四杯目よ。痛みで死なせたくないの。ローダナムは効くまで二十分かかる。待ってる暇はないわ」
ローダナムは、アヘンを酒に溶かした痛み止めだ。痛みは和らげるが、眠らせてはくれない。この国にはまだ、人を眠らせたまま切る方法がない。だから外科医は、とにかく速く切る。
オーガスタは細いピンセットを刃先に当てた。
「エドワード、聞こえる? 今から、一番痛いことをするわ」
『やめ…やめてくれ…』
「やめない。生きたいならね」
刃先をつまむ。血の管に触れないように、横へ、ゆっくり。
男が叫んだ。上のワルツが、ちょうど一番盛り上がるところだった。広間の誰にも聞こえない。
抜けた。
小さな出血を糸で縛る。傷を縫う。針を刺す。引く。結ぶ。全部で十二針。
「終わったわ」
台所の壁の時計を見た。傷を開いてから縫い終えるまで、四分と少し。
従僕の一人が、その場にへたりこんだ。
*
階段の上から、どすどすと足音が下りてきた。
『何をしている!』
入ってきたのは、太った初老の男だった。赤ら顔に、白い頬ひげ。胸に金鎖の懐中時計。ドクター・フィニアス・グレイブ。貴族の屋敷ばかりを回る内科医で、この家の主治医だ。
オーガスタはこの男が嫌いだった。三年前、夫の葬儀の席で「女房が手を出しすぎたからだ」と、聞こえるように言った男だ。
「縫っていたのよ、先生。あなたが上でシャンパンを飲んでいる間にね」
『女が、刃物を。紳士の体に。正気か、君は』
「正気よ。生きてるわ、彼。見れば分かるでしょう」
『刃物を使うのは外科医の仕事だ。免許も持たん女が…』
「その外科医を呼んで、来るまでに一時間。彼はそれまでに死んでたわ。あなたも分かってたはずよ。だから、わたしが呼ばれたの」
グレイブの口が、ぱくぱくと動いた。言い返す言葉が出てこないらしい。
この国では、女は医者になれない。王立外科医師会は、女に試験を受けさせない。免許のない者が人の体を切れば、罪になる。
オーガスタには免許がない。あるのは、三年前に死んだ夫の名前と、夫の道具鞄だけだ。
ペンローズが一歩前に出た。
『ミセス・ヘイル。お代はいかほどで』
「百ギニー。金貨でね」
グレイブが目を剥いた。
一ギニーは一ポンドと一シリング。百ギニーなら百五ポンドになる。屋敷のメイドが一年働いてもらう給金が、十五ポンドほどだ。その七年分。
「払えないなら、この家の秘密を一つ。どちらでもいいわ」
『秘密、でございますか』
「そう。わたしは、秘密でもお代を受け取るの。ロンドンでは、秘密はお金と同じよ。お金より高いこともあるわ」
ペンローズは眉ひとつ動かさなかった。
『旦那様にお伝えいたします』
ペンローズは従僕の一人に何か耳打ちした。従僕は階段を駆け上がっていった。
振り向くと、フローラがいなかった。
「フローラ?」
ランプだけが、調理台の端に置いてある。
そのとき、使用人用の細い階段を、フローラが駆け下りてきた。
『ママ…ママぁ…』
顔が、さっきよりも白い。
「どこに行ってたの。勝手に歩き回らないでって、あれほど…」
『お手洗い、探してたの。そしたら、三階のお部屋のドアが開いてて。おじいさんが、ベッドで寝てて』
フローラは母親のエプロンをぎゅっとつかんだ。
『息、してないの。目、開いたまんまなの』
*
三階の奥の寝室は、蝋燭が一本だけ灯っていた。
ベッドの上に、痩せた老人が仰向けになっていた。白い髪が枕に広がっている。灰色の目が、天井を見たまま止まっていた。
『ホレス・ダーウェント様。旦那様の叔父上です。七十一歳になられます』
ペンローズの声は、台所にいたときと何も変わらなかった。
『長く胃を患っておいででした』
オーガスタは枕元に近づいた。
床の洗面器に、吐いたものが溜まっている。量が多い。何度も吐いたのだろう。シーツの端も汚れていた。
枕元の小机には、銀のカップが一つ。温めた牛乳にワインを混ぜた寝酒の匂いがする。カップの底に、白い粉のようなものがこびりついていた。
胸の奥が、冷たくなった。
鼠を殺すための薬がある。ヒ素だ。薬屋に行けば、誰でも一袋を数ペンスで買える。飲めば、ひどく吐いて、死ぬ。
そうかもしれない。まだ分からない。そう思った。
「ペンローズ。このカップを運んだのは誰?」
ペンローズが、口を開きかけた。
『叔父は病死だ』
戸口に、男が立っていた。
背が高い。黒い髪をきちんと後ろへ撫でつけている。燕尾服の胸に、白い椿。顔立ちは驚くほど整っていて、緑の目が、上からこちらを見下ろしていた。
ルシアン・ダーウェント。ダーウェント伯爵。この屋敷の主だ。三十四歳で、まだ独り身。社交界の噂新聞『鍵穴』で、何度も名前を見たことがある。
嫌な目だ、とオーガスタは思った。人を値札で見る目だ。
「まだ何も言っていないわ、伯爵」
『言う前に止めている。叔父は長く胃を患っていた。今夜、眠ったまま亡くなった。それだけだ』
「眠ったまま死んだ人は、あんなに吐かないわ」
『ミセス・ヘイル』
伯爵の声が、一段低くなった。
『ダーウェント家の者の体に、死んでから刃物を入れることは許さない。医者にも、警察にもだ』
ロンドンの上流の家は、どこもそうだった。死んだ家族の体を、決して切り開かせない。
ほんの十年ほど前まで、この街には墓を掘り返して死体を盗み、解剖用に売る者がいくらでもいた。だから貴族は墓に鉄の檻をかぶせる。死因を調べさせることを、何より嫌う。
死んでから体を切られるのは、罪人と、引き取り手のない貧乏人だけ。それがこの国の決まりごとだった。
「調べれば、分かることがあるかもしれないのよ」
『調べさせない』
いつの間にか、ペンローズが革の袋を手にしていた。伯爵はそれを受け取り、オーガスタの前に差し出した。
『弟の分の百ギニー。それに、百ギニー足す。今夜ここで見たことを、忘れる代金だ』
二百ギニー。二百十ポンド。メイドの給金なら、十四年分になる。
「忘れられなかったら?」
『治安判事に話す。免許のない女が、伯爵家の台所で人を切ったと』
「あなたの弟の命を救ったのに?」
『だから金を払うと言っている』
それ以上は、何も言わなかった。言う必要がない、という顔だった。
家賃は二か月分たまっている。フローラの靴は、もう指が当たるほど小さい。
オーガスタは、袋を受け取った。重かった。
「受け取るわ。お代はね」
*
帰りの馬車は、揺れがひどかった。
膝の上の金貨の袋が、揺れるたびにじゃらりと鳴る。
『ママ、見た? 上の広間のドレス。水色で、裾にお花がいーっぱい縫いつけてあるの。あんなの、わたしも着てみたいなぁ』
「見てないわよ。ずっと台所にいたもの」
『わたしは見たの。お手洗い探しながら、ちょっとだけ』
フローラはくすくす笑った。それから急に黙った。
『ママ。怒らない?』
「何を」
フローラはエプロンのポケットから、何かを出した。
小さな銀のスプーンだった。先に、白い粉がこびりついている。
『おじいさんのカップの横にあったの。なんか、変だなって思って。持ってきちゃった』
オーガスタは、息を止めた。
ヒ素なら、確かめる方法がある。一八三六年に、イギリスの化学者が見つけたやり方だ。まだ四年しかたっていない。ロンドンの医者でも、知っている者はほとんどいない。
けれど、確かめれば約束を破ることになる。二百ギニーを受け取った約束を。
そして伯爵は、治安判事に話すと言った。
「フローラ」
『…はい』
「このことは、誰にも言っちゃだめよ。一人にも」
オーガスタはスプーンをハンカチで包み、道具鞄の一番底にしまった。
馬車の窓の外で、ロンドンの夜が流れていった。
第一章 了
── 第1章 おわり ──