
第30章
鐘鳴き
草が倒れる線は、真っ直ぐだった。
曲がらない。迷わない。光る草の海を、一本の線が裂いて、こちらへ伸びてくる。
鳴き声が、また来た。
水の中で鐘を鳴らしたような音。今度は近かった。地面が、足の裏でかすかに震えた。
「何だ、あれは」
『鐘鳴き、って呼んでる』と前を向いたヨルンが言った。『共和国の番犬だ。国境に八頭いる』
「どう戦う」
『戦わない。見つかったら、逃げる』
「逃げられるのか」
後ろを向いたユランが、首を横に振った。
『無理だよ。あれは粒を食う。粒の匂いを追ってくる。荷台に百本からの海の水を積んで、粒で動いてる女を連れて、逃げられるわけがない』
*
ミラベルは、荷車の前に出ていた。
あくびをしていた。さっき「お腹すいてた」と言ったときと同じ顔だった。
それが、途中で変わった。
『…あれ』
ミラベルが、自分の左手を見た。金属の指を、一本ずつ曲げた。
曲がり方が、遅かった。
『あー。そういうこと。あっはは、やだなぁ』
「何だ。どうした」
『吸われてる』
ミラベルは笑っていた。笑っていたが、声が細くなっていた。
『あいつ、遠くから粒を吸うんだよ。近づくほど強く吸う。あたし、半分が粒でできてるって言ったよね』
「…言った」
『だから、相性、最悪』
*
草の海が、割れた。
出てきたものは、大きかった。
高さは荷車の倍。長さは荷車を三台並べたくらい。低く地面に張りついていて、脚が数えきれないほどある。
体は透き通っていた。硬い板を何百枚も重ねたような殻で、板の一枚一枚の奥で、白い光がゆっくり脈打っていた。本部の廊下と同じ色の光だった。
頭がなかった。
頭があるべきところに、大きな穴が一つ開いていた。穴の縁が、ゆっくり開いて、閉じた。そのたびに、鐘の音が鳴った。
馬が二頭、同時に暴れた。
ドラグが手綱をつかんで押さえつけた。押さえつけながら、荷台の後ろへ叫んだ。
『書記! 降りろ! 荷車から離れろ!』
ロズリンは紙束を抱えたまま、荷台から転げ落ちた。
*
鐘鳴きが、ミラベルに向かって、穴を開いた。
ミラベルの体が、前へ引かれた。足が砂を滑った。数日前、砂を一歩も滑らせずに止まった女が。
脇腹の、双子に裂かれた傷口が、また開いた。
黒いものが、にじみ出て、宙に浮いた。
浮いたまま、細い筋になって、鐘鳴きの穴へ吸い込まれていった。
『っ、あー…これ、ちょっと、まずいかも』
ミラベルが、左腕の刃を伸ばした。
伸びきらなかった。いつもの半分の長さで、止まった。
マーロウは、帯の左側を押さえていた。
革の小袋が、帯の中で動いていた。
袋の中の粒が、鐘鳴きのほうへ引かれて、革を内側から押していた。
「…こいつ、おれの粒も狙ってる」
『そりゃそうだよ。坊や、九十九粒も持ってんだもん。あっちからしたら、ご馳走の袋だよ』
マーロウは、鐘鳴きを見た。
頭がない。目もない。粒の匂いを追ってくる、と双子は言った。
粒の多いほうへ行く。
*
マーロウは、走った。
荷車と反対の方向へ。光る草の中へ。
『マーロウ!?』
ウィラの声が、後ろで裏返った。
振り返らなかった。帯から小袋を引き抜いて、紐をほどいて、手のひらに十粒ほどつかんで、走りながら後ろへばらまいた。
鐘鳴きの穴が、こちらを向いた。
向いた、と分かった。頭がないのに、分かった。何百本もの脚が、一斉に向きを変える音がした。
ミラベルの体を引いていた力が、ふっと消えた。
鐘鳴きが、来た。
速かった。草を押し倒しながら、地面を揺らしながら、真っ直ぐに。
マーロウは走った。三十日壁を登った脚で、痛みを感じない体で、光る草を掻き分けて。
十歩ごとに、十粒ずつ撒いた。
鐘鳴きは、撒くたびに少しだけ止まった。止まって、穴を地面に押しつけて、粒を吸った。それから、また来た。
袋が軽くなっていった。
九十九が、八十九になった。七十九になった。
背中で、鐘が鳴った。
近すぎた。
振り返ると、透き通った殻が、目の前にあった。殻の奥の白い光が、ゆっくり脈打っていた。穴が、開いた。
マーロウの帯が、前へ引かれた。袋ごと。
袋を、握りしめた。放さなかった。
体ごと、穴のほうへ引きずられた。
*
光が、横から来た。
光ではなかった。刃だった。
ミラベルが、草の上を跳んでいた。
鐘鳴きがマーロウに穴を向けているあいだ、ミラベルを吸う力は無かった。その分だけ、刃が伸びていた。いつもの長さに。いつもより、少しだけ長く。
『坊や、伏せて!』
マーロウは伏せた。
頭の上を、刃が通った。
鐘鳴きの殻に、線が入った。一本。真っ直ぐに。穴の縁から、殻の尻まで。
何百枚もの板が、線に沿って、ずれた。
ずれた隙間から、白い光が噴き出した。光は一瞬だけ草の海を昼みたいに照らして、それから、消えた。
鐘の音が、途中で止まった。
鐘鳴きは、二つになって、倒れた。
殻の中から、粒がこぼれ出した。
何百粒も。もしかしたら何千粒も。黒い粒が、光る草の上にざらざらと広がった。
マーロウが撒いた二十粒も、その中に混じっていた。どれがどれか、もう分からなかった。
*
ミラベルが、マーロウの横に降りた。
息が荒かった。脇腹を押さえていた。黒いものが、指の間から垂れていた。
それから、マーロウを見た。
しゃがみこんで、顔を近づけて、茶色い目と金属の目の両方で、じっと見た。
「…何だよ」
『坊や、今、自分が餌になって走ったよね』
「餌じゃない。囮だ」
『同じだよ。あたしから引き離すために、粒持って、あいつの前を走った』
「そうしないと、あんたが吸い尽くされてただろ」
ミラベルは、黙った。
二百十年生きている女が、黙った。
それから、急に、大声で言った。
『惚れた!』
「…は?」
『惚れた! 今、惚れた! 決めた! 坊や、あたし、あんたに惚れたわ!』
「待て。何言ってんだ、あんた」
『二百十年で初めてだよ、あたしの前を走ってくれた奴! みんなあたしの後ろに隠れるんだもん! あっはははは!』
ミラベルは、マーロウの両肩をつかんで、揺さぶった。金属の手と、そうでない手で。
『決めた決めた。もう決めたからね。取り消さないよ』
「取り消せ。今すぐ」
『やーだ』
光る草の向こうから、ウィラが走ってくるのが見えた。
*
ウィラは、走ってきて、マーロウの前で止まった。
ミラベルを見て、マーロウを見て、それから、マーロウの胸を拳で殴った。
『ばか!』
「痛くない」
『知ってるよ! 知ってるから殴ってんの!』
もう一回殴った。
『なんで一人で行くの! なんで何も言わないで走るの! あたし、あたし、また置いてかれるかと思ったじゃん!』
三回目は、殴らなかった。
拳を開いて、マーロウの服をつかんで、顔を胸に押しつけた。
肩が震えていた。
マーロウは、どうしていいか分からなかった。
三年、この子と暮らしてきた。一緒に飯を食って、一緒に市場を歩いて、一緒に水道橋の上で夕焼けを見た。
それでも、こういうときにどうすればいいのかは、知らなかった。
知らなかったので、手を上げて、ウィラの頭に置いた。
赤茶の髪は、結わえた端から半分落ちていた。
三年で初めて、その頭に手を置いた。
「…悪かった」
『悪いよ。すごく悪い』
「次は言ってから走る」
『走らないでよ、そもそも』
ミラベルが、横でそれを見ていた。
茶色い目が、少しだけ、優しくなっていた。
『…あー。なるほどね。親子みたいなもんか』
小さい声だった。誰に聞かせるでもない声だった。
*
荷車のところへ戻ると、ロズリンが砂の上に座り込んでいた。
紙束を抱えたまま、震えていた。書こうとして、筆を持つ手が震えて、字にならなかった。
ドラグが、無言で自分の上着を脱いだ。
脱いで、ロズリンの肩に掛けた。
何も言わなかった。ロズリンも、何も言わなかった。
ロズリンは、しばらく上着の襟を両手で握っていた。
それから、筆を持ち直して、一行だけ書いた。
マーロウには、何と書いたのか見えなかった。
ロズリンは、書いたあとで、その行の上に紙を一枚重ねて、隠した。記録係が、自分の記録を隠すのを、マーロウは初めて見た。
*
鐘鳴きの残骸を越えて、さらに半日、南へ進んだ。
光る草の海が、そこで終わっていた。
丘の上に出た。
下を見て、全員が、荷車を止めた。
畑だった。
地平線まで続く、四角く区切られた畑だった。区画の一つ一つに、光る草が植えられていた。
そして、草のあいだに、人が並んでいた。
横になっていた。一列に。何百列も。頭を同じ向きに揃えて、腕を体の横につけて。
眠っているように見えた。
一人一人の胸から、細い管が一本ずつ伸びていて、光る草の根元に刺さっていた。
草の茎の中の白い筋が、脈打っていた。人の胸が上下するのと、同じ速さで。
『共和国は、牛を飼ってないって言ったよね』
ミラベルが、丘の上で、静かに言った。いつもの笑いはなかった。
『人を飼ってるって』
ウィラが、マーロウの袖をつかんだ。今度は、両手で。
マーロウは、畑の列を数えようとして、やめた。
数えるのをやめたのは、数が多すぎたからではなかった。
列の、いちばん手前。丘のすぐ下。
管につながれて横になっている男の顔が、見えたからだった。
白い髪。痩せた体。左の眉が真ん中で切れている。顎の右側に、細い傷が二本。
八日前、九年ぶりの風に両手を広げて、恥ずかしそうにやめた男だった。
第三十章 了
── 第30章 おわり ──