
第29章
南へ
サイラス・メレディスは、荷車の下から出てきた。
戦いのあいだ、ずっとそこにいたらしい。清潔だった服が、砂と油でまだらになっていた。眼鏡のつるが片方曲がっていた。
『おはようございます。皆さま、ご無事で何よりでございます』
「…いたのかよ、あんた」
『おりました。ずっと。荷車の下に』
「一晩中か」
『一晩中でございます。私は記録係ですので、記録係が死ぬと記録が残りません。ですから隠れておりました。合理的な判断でございます』
ウィラが、横で鼻を鳴らした。
「へーえ。合理的ねぇ」
サイラスは眼鏡の曲がったつるを指で戻そうとして、戻らなかったので、そのままかけ直した。
『南へ行かれるのでしたら、私も同行いたします』
「断る」
『本部の指示でございます』
「いつ出た、そんな指示」
『荷を積んだ日に』
マーロウは、それ以上何も言えなかった。
五十八日ぶんの海水と一緒に、この男の同行も、最初から荷台に積んであったのだ。
*
行く者は、昼までに決まった。
マーロウ。ミラベル。ドラグ。ロズリン。サイラス。
それから、ヨルンとユラン。
「おまえらを連れていく理由がない」とドラグが言った。
『道を知ってる』
前と後ろの二つの口が、同時に答えた。
「裏切らない理由もない」
後ろを向いたユランが答えた。
『あるよ。二年前、おれたちをつなげたのは、共和国の医者だ。ケイル将軍が見てた。止めなかった』
前を向いたヨルンが、目を閉じたまま付け足した。
『帰れば、また使われる。帰らなければ、あんたらに使われる。どっちみち使われるなら、使う相手くらいは選びたい』
ドラグは、しばらく双子を見ていた。
それから、縄を解いた。
ウィラは、誰にも訊かれなかった。
訊かれる前に、荷車に乗っていた。
「降りろ」
『やだ』
「二十九日だぞ、今度は。片道で」
『知ってる。聞いてたもん』
「共和国だぞ。人を飼ってる国だ」
『知ってるってば。だから行くんでしょ。一さん、連れてかれたんだよ? あたし、握手したんだよ?』
マーロウは、三つ言い返そうとして、三つとも捨てた。
この子と三年いて、学んだことが一つある。握手した相手のために荷車に乗った子どもを、降ろせる言葉はない。
*
ハーランと十九人の坑夫は、西の哨所へ向かうことになった。
荷車は使えない。一台しかないからだ。坑夫たちは歩く。四人は骨を折っているので、交代で担ぐ。
『ブリンに伝言はあるか』とハーランが訊いた。
「犬に、靴を食わせるなって言っといてくれ」
ハーランは、火傷のない側の顔で、もう一度だけ笑った。
『伝える。一字一句、そのままな』
*
出発は、翌朝の予定だった。
その夜、音がした。
最初に気づいたのは、巻き取り機を回す牛だった。四頭とも、夜中に一斉に立ち上がった。鼻を鳴らして、後ずさった。
次に、鎖が鳴った。
籠を吊るす鎖だ。一を引き上げたあと、籠は外したが、鎖はそのまま穴の中に垂らしてあった。三千八百メートルぶんの鎖が。
それが、ぴんと張った。
マーロウが駆けつけたときには、坑夫が三人、巻き取り機にしがみついていた。
巻き取り機の太い軸が、穴のほうへ傾いていた。軸を留めている鉄の杭が、地面から少しずつ抜けかけていた。
鎖が、下へ引かれていた。
『下で何か引っかかってる!』と坑夫の一人が叫んだ。
「何にだ!」
『分からん! 水の中で、岩でも動いたのか!』
杭が一本、抜けた。
巻き取り機が、がくんと傾いた。
ドラグが来た。
来て、何も言わずに鶴嘴を振り上げて、鎖の留め金に叩きつけた。二度。三度。四度目で、留め金が割れた。
鎖が、穴の中へ走った。
ものすごい音がした。三千八百メートルぶんの鉄が、滑車を擦りながら、真っ暗な穴へ落ちていく音だった。
音は、長く続いた。
それから、止んだ。
落ちきった音はしなかった。ただ、止んだ。
*
誰も、しばらく何も言わなかった。
『…水圧だろう』とハーランが言った。『九メートル上がった。重さが変わった。鎖が引かれたのは、それだ』
坑夫たちは、うなずいた。うなずきたかったからうなずいた、という顔だった。
マーロウは、ミラベルを探した。
塔の根元の石に座っていた。
いつもみたいに笑っていなかった。
穴を見ていた。金属の目と、茶色い目の両方で。瞬きをしない金属の目のほうに、塔の上の灯りが小さく映っていた。
「…何か知ってるのか」
ミラベルは、すぐには答えなかった。
それから、ぱっと顔を上げて、いつもの顔で笑った。
『んー? 水圧でしょ。主任さんがそう言ったじゃん』
「あんたの顔を見て訊いてる」
『あたしの顔? 可愛いでしょ』
「ミラベル」
名前を呼んだのは、初めてだった。
ミラベルは、少しだけ目を丸くした。茶色いほうの目だけで。
『…坊や、それ、ずるいよ』
それだけ言って、立ち上がった。
『行こっか。明日早いし。南は遠いよ』
声が、いつもより半拍だけ明るかった。
*
南へ向かって、三日走った。
荷車を引くのは馬が二頭。ミラベルは荷台に乗らず、横を歩いた。歩いているのに、馬と同じ速さだった。
三日目に、土の色が変わった。
赤い土が、黒くなった。
黒い土の上に、草が生えていた。二か月ぶりに見る草だった。ウィラが荷台から身を乗り出して、叫んだ。
『草! 草だよマーロウ! 緑!』
「見りゃ分かる」
『なんでそんな冷めてんの!? 草だよ!?』
草は、進むにつれて背が高くなった。膝まで。腰まで。頭の上まで。
そして、光りはじめた。
夕方、日が落ちかけたとき、それに気づいた。
草の茎の中に、細い筋が通っていた。筋が、ぼんやり光っている。白い光だった。本部の廊下と同じ色の光だった。
マーロウは荷車を止めさせて、一本、茎を折った。
折れ口から、何かがこぼれた。
黒い、小さな粒だった。米の半分よりずっと小さい。砂粒ほどの。
「…粒だ」
『正解』とミラベルが言った。『ここから南は、粒で育つ草ばっかりなんだよ。水じゃなくて』
「そんなもんがあるのか」
『あるよ。共和国が植えた。水が要らない草。水が要らない麦。水が要らない牛』
ミラベルは、光る草の海を見渡した。
『水が無くても生きられるように、全部作り替えてんの。草も、牛も。そのうち人も』
ウィラが、手に持っていた草を落とした。
*
その夜、火を焚かなかった。
焚く必要がなかった。周りの草が、全部光っていたからだ。
ドラグが、一人で荷車から離れて座っていた。
マーロウは、隣に座った。
「兄貴のことか」
『…あの男は、昔から、翼が欲しいと言っていた』
「翼」
『子どもの頃だ。グリフォンを見上げて、あれが欲しいと言った。オークは飛べん。飛べん生き物に生まれたのが気に入らんと』
ドラグは、光る草を一本、指で弾いた。
『叶えたな。他人の翼で』
「…殴るのか、会ったら」
『分からん』
ドラグが自分のことで「分からん」と言うのを、マーロウは初めて聞いた。
『翼を返させる。それだけは決めている。あれは獅子のものだ』
遠くで、何かが鳴いた。
獣の声ではなかった。鳥の声でもなかった。鐘を、水の中で鳴らしたような音だった。
ヨルンとユランが、同時に顔を上げた。
『来た』
二人の声が、ぴったり重なっていた。
「何がだ」
『国境の番犬だ。共和国の』
光る草の海の向こうで、草が、一列に倒れていくのが見えた。
こちらへ向かって。
速かった。
ミラベルが、あくびをしながら立ち上がった。
『あー。お腹すいてたとこ』
第二十九章 了
── 第29章 おわり ──