
第27章
神の血
ドラグは、兄のほうへ歩いた。
誰も止めなかった。止められる距離に、誰もいなかった。
五歩手前で止まった。
「三年だ」
『三年だな』
「荷は着いた。おまえが着かなかった」
『着く気がなかったからな』
「名札を、乾いた海の底に置いてきた」
ケイルは、そこで初めて表情を変えた。ほんのわずかに、眉が下がった。
『…そうか。拾っとく』
「その翼は何だ」
『もらった』
「誰から」
『知りたがりの獅子からだ。南へ何かを調べに来て、捕まった。翼をもらって、帰してやった。共和国は殺さない。使えるものは使う』
マーロウは、灯台跡の声を思い出した。
私は知らないことがあると眠れない性質でして、この性質のせいで翼を失いました。
*
「何をしに来た」とドラグが言った。
『神の血を取りに来た』
ケイルは、マーロウのほうを見た。それから、塔の足元の一を見た。
『二人とも地上にいると聞いた。九年、坑の底に一人。もう一人は、どこにいるのかも分からなかった。どっちも手が届かなかった。それが今は、同じ場所で、同じ空の下に立ってる』
マーロウの背中が、冷えた。冷たさを感じない体なのに、冷えた気がした。
条件の一つ目。坑底の男を上げろ。
あれが、二人を並べた。
『本部は二百九十年、海を粒にしてきた。一人で抱えてな。共和国は、それを自分の手でやりたい。神の血が一人あれば、牛も人も要らなくなる』
「神の血、だと」とマーロウが言った。
『共和国ではそう呼ぶ。終わらない血。粒を無限に生む血。それを持ってる者は、神と同じだろう』
「神が壁の外で死体の服を剥ぐかよ」
ケイルは、マーロウの顔を見た。
それから、少し笑った。ドラグには一度もなかった笑い方だった。
『だから言いにくいんだ。おれもな』
*
ミラベルが、そこで割り込んだ。
『はいはい、兄弟げんかは後にしてくれるかい。あたし、仕事中なんだよね』
ケイルが、翼を半分開いた。
「…本部の刃か」
『そう呼ばれてる。可愛くないよね、その呼び方』
「ここの人間は、共和国が預かる」
『ここの人間は、本部が連れてく。先約だよ』
「先約は、数で決まる」
『へえ』
ミラベルは、にっと笑った。
『じゃあ、数えてみようか』
*
最初に動いたのは、喉の膨らんだ男だった。
口が開いた。
音は、聞こえなかった。
聞こえなかったのに、マーロウの耳から血が出た。地面の小石が、一斉に跳ねた。十九人の坑夫が隠れていた小屋の、南向きの壁が、内側へ吹き飛んだ。
ウィラが悲鳴を上げた。その悲鳴も、聞こえなかった。
ミラベルが、消えた。
消えたように見えた。次に見えたとき、ミラベルは喉の男の横にいた。
左腕の刃が、伸びていた。
喉の男の首が、傾いた。傾いて、そのまま、体から離れた。
音が戻った。
グリフォンの前脚の男が、横から鉤爪を振った。四本の爪の一本一本が、人の腕ほどの長さがある。
ミラベルは避けなかった。金属の腕で受けた。
火花が散った。
爪が、四本とも、根元から落ちた。
男が叫ぶより早く、ミラベルの右手が男の胸に触れた。触れただけだった。男は二十メートル後ろへ飛んで、船の光の柱の外で、動かなくなった。
『あと十一人。あ、十人か。数えるの苦手なんだよね、あっはは』
*
双子が来た。
背骨でつながった二人が、四本の腕で地面を掻いて、獣のように走ってきた。前を向いた顔と、後ろを向いた顔が、同じ言葉を同時に言った。
「本部の刃。記録にある。二百十年前の型」
声が二重に重なっていた。
『型って言うなよ、失礼だねぇ』
ミラベルの刃が、双子を横に薙いだ。
当たらなかった。
前の頭が刃を見て、後ろの頭が次の動きを読んで、四本の腕が別々の方向へ体を運んだ。刃は、二人の間の空気を切った。
ミラベルが、初めて足を止めた。
『…へえ』
笑っていた。さっきまでとは違う笑い方だった。
『いいじゃん。いいねぇ、あんたたち。前と後ろで見てんのか。そりゃ当たんないわ』
双子の四本の腕が、同時に振られた。ミラベルは刃で二本を落とし、金属の腕で一本を受けた。四本目が、脇腹に入った。
ミラベルの体が、横にずれた。
継ぎはぎの服が裂けて、その下から、血ではないものが出た。黒くて、光を返さない、粒のような液だった。
『あー。痛い。痛いって、これ』
*
マーロウは、それを見ていなかった。
見ていたのは、塔の足元だった。
残りの共和国の兵が、三人、一のほうへ走っていた。
一は逃げなかった。逃げ方を、九年の底で忘れていた。
マーロウは走った。
三十日壁を登った脚が、勝手に地面を蹴った。痛みがないので、どこまでも蹴れた。
一人目に追いついた。人の形をしていて、両腕が肘から先、黒い殻に覆われている男だった。殻の腕がマーロウの肩を払った。
肩の骨が、鳴った。折れた音だった。
痛くなかった。
マーロウは、折れた肩のまま、男の腕にしがみついた。
殻の継ぎ目が、擦れて剥けていた。赤い肉が覗いて、濡れていた。
自分の手のひらを、鉤で切った。深く。血が出た。
その手を、継ぎ目の皮膚に押しつけた。
男が、声を上げた。
押しつけた手のまわりが、黒くなった。黒くなって、粒が一つ、ぽとりと落ちた。桶一杯ぶん。人の体から、桶一杯ぶんの水が、一瞬で消えた。
男の腕が、萎んだ。萎んで、殻の中で、枯れた枝のようになった。
男は膝をついて、そのまま前へ倒れた。
マーロウは、自分の手を見た。
手のひらの傷は、もう塞がりかけていた。
足元に、粒が一つ落ちていた。米の半分ほどの大きさ。印はない。
印を打つ機械が、ここにはない。
何を消したのか、書く者がいない。
*
残りの二人が、足を止めていた。
マーロウを見ていた。倒れた仲間と、マーロウの手を、交互に見ていた。
その後ろで、翼が広がった。
ケイルが、飛んでいた。
八メートルの翼が一度打つと、砂が円く吹き飛んだ。二度打つと、ケイルは塔の足元にいた。
一の腕をつかんで、そのまま上へ。
『放せ。放せ、おい』
一が、九年ぶりに、大きな声を出した。
マーロウは跳んだ。届かなかった。指先が、一の靴の底を掠めた。
ドラグが、鶴嘴を投げた。
鶴嘴は、ケイルの右の翼の付け根に刺さった。灰白色の羽根が散った。
ケイルの体が傾いた。傾いて、立て直した。
見下ろした。弟を。
『…いい腕だ。昔から、投げるのだけは上手かった』
「降りてこい」
『降りない。おまえも一緒に来い、と言いたいが、それも言わない』
「なんでだ」
『言ったら、来るだろう。おまえは』
ケイルは、船の光の柱の中へ上がっていった。
一を抱えたまま。
*
マーロウは、ミラベルのほうを振り向いた。
ミラベルは、双子の片腕を切り落として、脇腹を押さえて立っていた。まわりに、共和国の兵がさらに二人倒れていた。黒い液が、指の間から垂れていた。
ケイルが上がっていくのを、見ていた。
見ていて、動かなかった。
「おい! あいつ、一を連れてくぞ!」
『見てるよ』
「止めろよ! あんたなら届くだろ!」
『届くね』
「じゃあなんで」
ミラベルは、脇腹から手を離して、黒く濡れた指を見た。
『あたしの仕事は、ここの人間を東へ連れてくことだよ、坊や。南へ連れてかれるのは、仕事の外』
「そんな理屈があるか!」
『あるんだよ。二百十年、それでやってきた』
ミラベルは、にっと笑った。
笑ったが、茶色いほうの目が、笑っていなかった。
『それにさ。あたしが本当に止めたいかどうか、あたし自身、まだ決めてないんだよね』
船の腹が閉じた。
光の柱が消えた。
三百メートルの黒い影が、音もなく、南へ滑っていった。星が一つずつ戻ってきた。
掘削地に残ったのは、倒れた共和国の兵が五人と、片腕の双子と、壁が一枚ない小屋と、足元の印のない粒一つと。
そして、七メートルから上がり続けている水位だった。
坑の底で水を下げられる血は、この世に二人しか残っていない。
一人は今、南の空にいる。
第二十七章 了
── 第27章 おわり ──