
第26章
南の空
二日目の夜、水位は七メートルになっていた。
ミラベルは塔の根元から一度も動かなかった。昼は寝て、夜は起きていた。坑夫が飯を運ぶと、礼を言って食べた。二杯目を頼んだ。三杯目も頼んだ。
『ここの豆、うまいねぇ。本部の飯は味がしないんだよ。栄養だけあって、味がない』
「本部に住んでるのか」とマーロウは訊いた。
『住んでるっていうか、置いてある? あたし、あいつの持ち物だからさ』
「持ち物」
『そう。坊やと同じ。坊やは血の入れ物で、あたしは刃の入れ物』
ミラベルは左腕を持ち上げて、月にかざした。金属の指が、一本ずつ開いて、閉じた。
『あいつが最初に作ろうとしたのは、あたしのほうなんだよ。水を守る刃。坊やたちはその後。刃じゃ海は減らせないって、あいつが気づいてからの話』
「…何年前だ」
『二百十年』
ミラベルは、それを天気の話のように言った。
『あたし、二百十歳。見えないでしょ。あっはは。褒めてもいいよ』
*
音が来たのは、その少し後だった。
最初はウィラが気づいた。火のそばで膝を抱えていたのが、急に顔を上げた。
『…ねぇ。なんか鳴ってない?』
「何も聞こえないぞ」
『鳴ってるって。南。南のほう』
マーロウは南を見た。
何もなかった。星があって、地平線があって、その上は黒い。
黒すぎた。
星が、南の空の一角だけ、欠けていた。
ミラベルが、立ち上がった。
二日座り続けた女が、音もなく立った。
『あー。来ちゃったか』
「何がだ」
『共和国』
*
星を隠していたのは、船だった。
二か月前、市場の上で墜ちた帝国の輸送船は、全長六十メートルだった。
これは、その五倍はあった。
三百メートル。黒い腹を下に向けて、ゆっくり、音をほとんど立てずに、南から滑ってくる。翼はない。グリフォンも引いていない。何に吊られているのでもなく、ただ浮いていた。
腹の下から、光が漏れていた。白い光だった。本部の廊下と同じ色の光だった。
『粒で浮いてるんだよ、あれ』とミラベルが言った。『何万粒積んでるんだか』
「何万」
『牛にして何万頭。いや、あれは牛じゃないな』
ミラベルは、船の腹を見上げて、目を細めた。茶色いほうの目だけを細めた。
『共和国は牛を飼ってないんだよ。人を飼ってる』
船の周りに、点が散らばっていた。
点は動いていた。羽ばたいていた。
グリフォンだった。数えようとして、マーロウはやめた。四十を超えたあたりで、数えるのが意味をなくした。
一頭ごとに、背中に人が乗っていた。
*
掘削地が、一斉に動いた。
十九人の坑夫が小屋へ走った。ハーランが怒鳴った。この男が怒鳴るのを、マーロウは初めて聞いた。
『明かりを消せ! 全部だ! 火もだ!』
ドラグは荷車の陰に入って、残った得物を確かめていた。棒の先の鉄は、昨日ミラベルに二つにされた。今あるのは、坑夫から借りた鶴嘴が一本だ。
ロズリンは机の上の紙束を、布に包んで胸に抱えた。それから、それを持ったまま机の下に潜った。
一は、塔の足元で立ったまま、空を見上げていた。
「おい、隠れろ」
『あれは何だ。あれは何だ、おい』
「船だ。でかい船だ。いいから隠れろ」
『九年ぶりに外に出て、三日目にこれか』
一は、笑いそうな顔をした。笑い方を忘れているので、うまく笑えなかった。
ウィラが、マーロウの袖を両手でつかんでいた。
『マーロウ、どうすんの、どうすんの、あれ』
「分からん」
『分かんないの!?』
「分かるかよ、あんなもん。今日初めて見た」
正直に言った。ウィラは、正直に言われたことで少し落ち着いた顔をした。嘘をつかれるほうが、この子は怖いのだ。
*
船は、掘削地の真上で止まった。
高さは二百メートルほど。真下から見上げると、夜空の半分が船の腹だった。
腹の真ん中が、開いた。
光が落ちてきた。白い光の柱が、塔の少し南の地面を照らした。
その光の中を、人が降りてきた。
一人ずつ。紐も梯子もなく、ただ光の中をゆっくり落ちてきて、地面に着いた。
十二人。
マーロウは、最初、それが人だと思えなかった。
形は人だった。頭があって、腕があって、脚があった。
ただ、どれも、どこかが人ではなかった。
一人は、右腕が肩から先、グリフォンの前脚になっていた。鉤爪が四本、地面に届きそうなほど長い。
一人は、喉が大きく膨らんでいて、首の横に鰓のような裂け目が並んでいた。
一人は、背中から、同じ背丈の人間がもう一人生えていた。
違う。生えているのではなかった。背骨で二人がつながっていて、二つの頭が前と後ろを向いている。腕が四本あった。顔は、二つとも同じだった。
ミラベルが、塔の根元から一歩前へ出た。
『へえ、双子まで持ってきたんだ。本気だねぇ』
声が、二日前と同じ調子だった。豆を食べていたときと同じ調子だった。
*
最後に、十三人目が降りてきた。
光の柱の真ん中を、ほかの十二人よりゆっくり降りてきた。
背中に、翼があった。
大きな翼だった。広げると、左右で八メートルはある。羽根の色は灰白色で、月の光の下では骨の色に見えた。
マーロウは、その色を知っていた。
灯台跡で見た。獅子の体の、毛の色だ。肩甲骨のあたりに、根元から取られた傷跡が二つあった。
男は地面に降りて、翼をたたんだ。
オークだった。
ドラグより少し背が低い。肌は灰色がかった緑。下の牙が二本、唇の外に出ている。髪は頭に張りつくほど短い。目は黒くて小さくて、瞬きが少ない。
荷車の陰で、鶴嘴が地面に落ちる音がした。
ドラグが立ち上がっていた。
「…ケイル」
翼の男は、その声のほうを向いた。
向いて、しばらく見ていた。
『久しぶりだな、ドラグ』
声が、ドラグとまったく同じ高さだった。
第二十六章 了
── 第26章 おわり ──