
第24章
水位
籠の中の男は、膝を抱えて座っていた。
出てこなかった。
誰も手を出さなかった。出していいのかどうか、全員が分からなかった。
マーロウが前に出て、籠の枠に手をかけた。
「おい」
『…明るいな』
「昼だからな」
『明るいな。明るい』
一は、目を閉じたまま言った。九年、白い灯り一つで暮らした目だ。
マーロウは上着を脱いで、一の頭にかぶせた。
『何をする』
「旅の臭いがついてるが、我慢しろ」
『…助かる。助かるよ』
*
一が籠から出るのに、十分かかった。
脚が動かなかったのではない。地面が動かないことに、体が慣れていなかった。
立ち上がって、三歩歩いて、止まった。
それから、風のほうを向いた。
『風だ』
「風だな」
『九年ぶりだ。九年ぶりだぞ、これ』
一は両手を広げた。広げてから、恥ずかしそうにやめた。やめ方が下手だった。
ウィラが近づいてきた。
三歩手前で止まって、顔を上げて、しばらく見ていた。
一も、上着の隙間から見返した。
『…似とるな』
「そりゃ似てるだろ」
『そっちじゃない。この子だ』
「誰に」
『知らん。誰かに似とる。誰かは思い出せん』
ウィラは、その言い方に怒らなかった。
代わりに、手を出した。
「ウィラ・ドーセットです」
一は、その手をしばらく見ていた。
握手というものを、九年していない。たぶん、その前の二年半もしていない。
手を出して、握って、それから一度、強く握り直した。
『名乗られたのは、十一年ぶりだ』
*
ハーランがそれを壊した。
壊したくて壊したのではないのだろう。仕事だったからだ。
「一つ訊く。下の水位は、今どうなっている」
『下がっとる。今朝も二時間やってから乗った』
「今朝やって、明日は誰がやる」
一が、上着の隙間からハーランを見た。
それから、ゆっくり言った。
『…誰もおらん』
掘削地の十九人が、また手を止めた。
今度は、止まり方が違った。
「三日で床まで来ると言ったな」とマーロウが訊いた。
『言った。金属の床までだ』
「その先は」
『その先は測っとらん。測る意味がなかったからな。毎朝下げとったから』
ハーランが、秤の縁を握った。
火傷のない側の顔が、はっきり動いた。この男がそこまで動くのを、マーロウは初めて見た。
『穴が埋まる』
「六十年ぶんか」
『六十年ぶんだ』
*
誰も怒鳴らなかった。
怒鳴る相手が、この場にいなかった。
引き上げろと書いたのは本部で、本部は六日東にあって、紙で喋る。
引き上げろと言わせたのは、マーロウだ。
「おれが言った」
言ってから、後悔はしなかった。後悔しない自分に、少し驚いた。
「条件の一つ目に出した。坑底の男を上げろって」
『…あんた』とハーランが言いかけて、口を閉じた。
閉じてから、開いた。
『それは、正しいことだ』
「そうか」
『正しい。正しいが、私は十九人に何と言えばいい』
マーロウは、その十九人の顔を見た。
名前を知っているのは一人もいない。四十日ほど前に二晩泊まって、飯をもらっただけだ。
そのうちの何人かは、六十年の三十年ぶんをここで使っている。
*
ドラグが、そこで前に出た。
『ベッセル主任。報告の形を決める必要がある』
「形か」
『坑が埋まる。これは動かせん。動かせるのは、誰の判断で埋まったかだけだ』
「本部の指示だ。紙がある」
『その紙を出せば、本部が困る。本部が困ると、困った先を探す。探した先に、この十九人がいる』
ハーランは黙った。
ドラグは続けた。声は同じ高さだった。
『おれが出す。壁の隊長が、管轄外で坑内作業員の引き上げを命じた。手続き違反だ。処分はおれ一人で済む』
「待てよ」とマーロウが言った。
『待たん』
「おれが言ったんだ。おれが書けばいいだろ」
『おまえは帝国の人間じゃない。処分する欄がない』
ドラグは、初めてマーロウのほうを正面から見た。
『欄のない人間は、書類では存在せん。存在せんものに責任は載せられん』
ロズリンが、机の上で紙をめくる音がした。
「モーテンセン隊長。一つだけ申し上げます」
『言え』
「あなたのお兄さんの欄も、空のままです」
ドラグは、しばらく何も言わなかった。
それから、荷車のほうへ歩いていった。
第二十四章 了
── 第24章 おわり ──