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挿絵

第11章

潜り

哨所を出たのは、着いた三日後の朝だった。

行くのは四人。マーロウ、ウィラ、ドラグ、ロズリン。護衛は連れていかない。ドラグが哨所に残すと決めた。荷車と牛を守る人間が要るからだ。

ブリンは囲いの外まで見送りに出てきた。

『二日で着く。水は一人五リットル持て。道は一本だ。迷いようがない』

「迷った人間はいるのか」

『おらん。戻らんやつはおる』

ブリンは笑った。笑ってから、笑うところではなかったという顔をした。

『すまん。ここじゃ笑うしかないことが多くてな』

ボロが囲いの隙間から出てきて、ウィラの足にまとわりついた。

「こいつ、ついてくる気だよ」

『ついてくぞ。途中で飽きて帰る』

「帰れるの?」

『犬だからな。道は覚えとる』

ボロは一日半ついてきて、二日目の昼に立ち止まって、西へ帰っていった。ウィラは三十分ほど無言だった。

*

歩いて半日で、地面が変わった。

赤い土が、灰色になった。細い脚の岩も無くなった。代わりに、地面のあちこちに穴が開いていて、そこから湯気が出ている。

マーロウは穴の一つに手をかざした。

「温かい」

『あなたは温度を感じないはずです』とロズリンが言った。

「熱いのは分かる。冷たいのが分からんだけだ」

『それは大きい違いです。書きます』

ロズリンは歩きながら書いた。

ドラグが穴の縁の土を指ですくって、匂いを嗅いだ。

『塩だ』

「湯気が塩辛いのか」

『土が塩を吹いとる。下から上がってきとるんだろう』

四千百二十メートルの下に海がある、とブリンは言った。

その海の匂いが、地面の穴から漏れている。

*

その晩、火を焚いてから、ロズリンが板を出した。

『一つ、整理させてください。私の頭の中だけだと間違えます』

「言え」

『分かっている番号を並べます。七桁のうち、上の四桁は全部同じです。下の三桁だけが違います』

ロズリンは火の明かりで板を読み上げた。

『一つ目。あなたの左肘の内側にある番号。生まれたときからある』

『二つ目。墜ちた船の中で、灰色のコートを着て死んでいた男の名札』

『三つ目。街側に落ちた船の後ろ半分から出た死体の名札。モーテンセン隊長が持っています』

『四つ目。哨所の出入り帳に書いてあった番号。三年前の秋に来て、掘削地へ行って、出た記録がない人物』

「四人いるってことか」

『いえ。三人です』

ロズリンは板の上で、二つの数字を並べて示した。

『三つ目と四つ目が、同じ番号でした。哨所で確かめました』

マーロウは、その意味を頭の中で組み立てた。

「待て。じゃあ、三年前に東へ行った男は」

『はい。街側の船から出てきた男です』

「死んでたな。あの日」

『死んでいました。つまり、こういうことになります』

ロズリンは指を折った。

『三年前の秋、あなたと同じ顔と同じ名前の男が、街から東へ来ました。哨所を通って掘削地へ入りました。出た記録はありません』

『そして三年後、その男は、東から街へ向かう帝国の輸送船に乗っていました』

『船は街の上で墜ちました。男は死にました。街側に落ちたほうです。隊長が名札を拾った男です』

ドラグが火の向こうで頭を上げた。

「戻ってきとったのか。三年かけて」

『戻る途中でした。着く前に墜ちました』

ウィラが、膝を抱えたまま小さく言った。

『…その人、何を持って帰ろうとしてたのかな』

誰も答えなかった。

答えは、たぶん鉄の箱の中に入っていた。中身はガラスの筒と、四千百二十メートルの深さから汲んだ水だ。それは今も、街の縫い屋の棚の奥で、麻の反物に巻かれているはずだ。

*

二日目の夕方、音が聞こえはじめた。

低い音だ。地面から来る。一定の間隔で、どん、どん、と叩いている。

近づくにつれて、音の間に別の音が混じった。鉄が擦れる音と、人の声だ。

丘を一つ越えると、掘削地が見えた。

哨所の塔より大きかった。高さは六十メートル近い。鉄の骨組みが四本脚で立っていて、その真ん中から鉄の管が地面へ入っている。

塔の周りに小屋が八棟。人が動いている。数えると十九人いた。

地面のあちこちから湯気が上がっていて、風向きによって、その湯気が塔を隠した。

『でっかい…』

「六十年ぶんだ」

『六十年で、まだ終わってないんだよね』

「あと十五年だとよ」

*

出迎えたのは、痩せた男だった。

五十代半ば。人間だ。背は高いが、肉がない。顔の左半分が火傷の跡で、つるりとしている。そちら側には眉毛がない。目は薄い灰色で、光の加減で白く見える。

声は低くて、ゆっくりで、一文ごとに最後まで言い切る。途中で言葉を濁さない。

『ハーラン・ベッセル。ここの主任だ。哨所から誰か来るとは聞いていない』

「モーテンセンだ。壁の管轄だが、今回は私用だ」

『私用』

ハーランは、その二文字だけをゆっくり言い直した。

『私用で、二十五日、歩いたのか』

「歩いた」

『そうか。長かったな』

ハーランはうなずいた。驚きもしなければ、迷惑そうでもない。

マーロウは、この男が何を考えているのか読めなかった。怒っていないし、喜んでもいない。何年も前に、何かを気にするのをやめた人間の顔だった。

『飯はある。寝る場所もある。水は一人三リットルだ。ここは哨所より少ない』

「少ない理由は」

『掘るのに使うからだ』

*

翌朝、ロズリンが掘削地の記録を見せてくれと頼んだ。

ハーランは断らなかった。小屋の一つに案内して、棚から帳面を出した。哨所のものより厚い。

『何を探している』

「三年前の秋です」

『名前は』

「マーロウ・ケイン」

ハーランは、初めてマーロウの顔を見た。ゆっくり見た。それから、帳面をめくらずに言った。

『その名前なら覚えている。めくらなくても分かる』

「覚えてるのか」

『覚えている。ここで名前を覚えるのは、潜りだけだ』

「潜りって何だ」

ハーランは帳面を閉じて、机の上で両手を組んだ。

『順番に話す。長くはない。途中で口を挟まれると、最初からになる』

『この穴は今、三千八百メートルある。掘るのは機械だ。管を継ぎ足して、先端で岩を砕く。ここまでは分かるな』

「分かる」

『問題は、千五百メートルより下だ。管が曲がる。詰まる。折れる。そうなると機械では直せない。人が行って直すしかない』

「三千八百メートルの下にか」

『そうだ』

「人が行けるのか、そんなとこに」

『行ける。籠に入れて、鎖で下ろす。片道で十九時間かかる』

ハーランは、指で机を一度叩いた。

『それをやる人間を、潜りと呼ぶ。半年あまりに一人、帝国が送ってくる』

「送ってくるって、どういう意味だ」

『言葉のとおりだ。名簿が来て、その名前の人間が来る。こっちで選ぶんじゃない』

「志願なのか」

『聞いたことがない。ここへ来た潜りは、全員、何も言わずに籠に乗った』

ウィラが、マーロウの袖を握った。

「何人下りた」

『私が主任になってから、十四人だ』

「何人上がってきた」

ハーランは、そこで間を置いた。ごまかしているのではなく、数えているように見えた。

火傷のない側の頬が、一度だけ動いた。動いたのはそこだけだった。

『一人も、いない』

「一人もか」

『一人もだ。十四人下りて、十四人だ』

部屋の中が静かになった。外で、地面を叩く音が続いている。

『管は直る。毎回直る。下りた人間が直して、上がってこない。籠だけが空で戻ってくる』

「鎖を引き上げるのはこっちだろう。何が起きてるか見えないのか」

『見えない。十九時間ぶんの鎖の先だ。声も届かん』

「帝国に報告してるのか」

『毎回している。九年、毎回だ』

「返事は」

『返事も毎回同じだ。次の名簿が来る。それだけだ。悔やみの一行もない』

*

ドラグが口を開いた。声はいつもと同じだったが、少し遅かった。

「兄の名前を言う。ケイル・モーテンセン。三年前だ」

『潜りではない』

「違うのか」

『あの男は付き添いで来た。潜りを一人連れてきた。名簿を持ってな』

ハーランは帳面を開いた。今度は開いた。

『帝国暦三四五年、秋。付き添い、ケイル・モーテンセン。潜り、マーロウ・ケイン』

ドラグは動かなかった。

「兄はどうなった」

『帰っていった。西へだ。潜りを引き渡したら、付き添いの仕事は終わりだ』

「帰り着いていない」

『それは知らん。ここを出たことは覚えている』

ロズリンが板に書いた。書いてから、顔を上げずに言った。

「ベッセルさん。三年前に下りたマーロウ・ケインは、上がってきましたか」

『上がってこない。十四人のうちの一人だ』

「では、質問を変えます。三年前に下りたマーロウ・ケインは、先月、帝国の輸送船に乗っていました。東から西へ向かう船です」

ハーランは、しばらく黙っていた。

『それは間違いだ』

「名札の番号を照合しました」

『それでも間違いだ。籠は空で戻った。私が見た』

「では、どちらかが間違っています。私は自分のほうを疑います。もう一度伺います。籠が空で戻ったのを、あなたは自分の目で見ましたか」

ハーランは答えなかった。

答えなかったのではない。答えを探していた。

『…見ていない』

「では誰が」

『報告を受けた。毎回だ。私は塔の上にいない。書類に、空と書いてある』

「書いたのは誰ですか」

『帝国から来た技師だ。名前は毎回違う』

*

話が終わったのは、昼を過ぎてからだった。

外に出ると、日が高かった。塔の影が短い。

ハーランが後から出てきて、マーロウの横に立った。

それから、言い忘れていたという調子で言った。

『お前、来るのが早いな』

「何の話だ」

『次の名簿だ。先月届いている』

ハーランは上着の内側から、折った紙を出した。開いて、マーロウに見えるように持った。

紙には判子が三つ押してあって、一行だけ書いてあった。

潜り、マーロウ・ケイン。来月着任。

番号が横に添えてあった。

上の四桁は同じだった。

下の三桁も、マーロウの腕の数字と、同じだった。

七桁全部が、同じだった。

第十一章 了

── 第11章 おわり ──

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鎖
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