
第1章
落ちてきた日
音が先だった。
厚い布を一気に引き裂くような音が、北の空から降ってきた。
マーロウ・ケインは干し肉屋の屋根の上にいた。靴の底が剥がれかけていて、それを縫っている途中だった。針を刺したまま顔を上げる。
北の空に、黒い煙の線が引いてあった。線の先が燃えている。
輸送船だ。でかい。横腹に帝国の赤いマークが見えた。
翼が三枚もげている。船を引っぱっていたグリフォンの鎖が二本、下にぶら下がって風になびいていた。グリフォン自体はいない。鎖だけが残っている。
マーロウは落ちる先を目で追った。
市場には落ちない。市場を越える。越えた先に何があるかは、この街の人間なら全員知っている。
「ウィラ! 荷車、今すぐ出せ!」
屋根の上から下の路地に怒鳴った。返事より先に、木の車輪が石畳を鳴らす音がした。
『もう出してるってば! そっちが遅いんでしょ!』
マーロウは屋根を三枚走って、積んである樽に飛び降りた。樽が崩れる。干した唐辛子が路地じゅうにぶちまけられた。店主が何か叫んだが、聞いている時間はない。
ウィラ・ドーセットが荷車の綱を肩にかけて待っていた。十五歳。背はマーロウの胸までしかない。赤茶の髪をいつも適当に結わえていて、結わえた端から半分落ちている。鼻の頭にそばかす。前歯が一本欠けていて、笑うとそこから息が漏れる。ただし荷を引かせたら、市場で三番目に速い。
三年前に拾った。正確には、向こうが勝手についてきた。追い払う理由を、マーロウはいまだに見つけていない。
『ねえ、どこ落ちんの』
「壁の向こうだ」
ウィラの手が止まった。
『は?』
「壁の向こうだって言った」
『聞こえてるよ! 聞こえてるから言ってんの! あそこ入ったら撃たれるじゃん!』
「行く」
『ちょっと待っ』
頭の上を影が通った。
熱い風が来た。市場じゅうの日よけが一斉にめくれ上がる。金属のきしむ音。悲鳴。ヤギの鳴き声。全部同時だった。口の中に鉄の味がした。近すぎる。
輸送船は市場の北の端をこすった。パン屋の煙突を二本へし折った。そこで胴体が真ん中から裂けた。
後ろ半分が街に落ちた。石畳を四十メートル掘り返して、問屋の壁に突き刺さって止まった。
前半分は飛んだ。
飛んで、海壁を越えた。
*
海壁は高さ二十二メートル、厚さ六メートル。石と鉄でできている。街の西側を三キロにわたってふさいでいて、上には見張り塔が並んでいる。
水を止めるための壁ではない。この街に高波は来ない。人間が海に近づかないための壁だ。
壁の向こうには幅百メートルの空き地がある。禁止区と呼ばれている。その先が砂浜で、その先が海だ。禁止区に入った人間は、見つかれば撃たれる。撃ったほうが罰せられることはない。
海水に触ってはいけない。なぜなのか説明できる人間に、マーロウは一度も会ったことがない。
市場の連中は、街に落ちた後ろ半分に殺到していた。ざっと三百人。もう殴り合いが始まっている。軍が来るまで、長くて十五分。
マーロウは反対方向に走った。
ウィラが荷車を捨てて追ってきた。
『みんな向こうだよ! こっち誰もいないじゃん!』
「だから行くんだよ。あっちは三百人で山分けだ。一人あたり靴下の片方だぞ」
『こっちは弾が当たって死ぬんですけど』
「死ぬのはおれだ。おまえは排水口で待ってろ」
『はぁ? 待つだけ? あたし何のためについてきてんの』
「生きてるためだ」
ウィラは何か言い返そうとして、間に合わなかった。
排水口は海壁の根元にある鉄の格子だ。雨のとき、街の水を禁止区に流すために作られた。去年の地震で、格子の三本目が根元から抜けている。抜けているのを知っているのは、マーロウの知るかぎり四人。そのうち二人はもう死んだ。
上着を脱いで格子のふちに巻いた。体をねじって押し込む。肩の皮が持っていかれて血が出た。痛みは後だ。
向こう側に出て、最初に来たのは音ではなくにおいだった。
塩。乾いた塩のにおい。
地面が白い。草が一本もない。虫もいない。百メートル先で海が動いている。この場所で動いているのは、それだけだった。
マーロウは海を見ないようにした。見ないようにするには訓練がいる。
*
船の前半分は、腹を上にしてひっくり返っていた。全長六十メートル。片側の外板が剥がれて、中身が丸見えになっている。
死体が転がっていた。船の外に六体。中に見えるだけで八体。全部で十四体。
着ているのは軍の制服だ。目の詰まったいい布で、ほどけば上等な糸に戻る。一人分で市場の飯が十日。十四人分なら四か月は食える。
それを一人で、時間内に。
マーロウは腰から鉄のフックを抜いた。
刃物は使わない。切った布は値が落ちる。
肘を曲げて袖から手首を抜く。肩を戻して反対側。襟をつかんで頭のほうへ一気に引く。ここまで八秒。体がまだ温かいから、関節が素直に動いた。
三体目の途中で、頭の上を影が横切った。
グリフォンだった。翼を広げると十メートルはある。背中に帝国の鞍が乗っていて、人が二人またがっていた。片方が身を乗り出して、こっちを見ている。
マーロウは剥いだ布をかぶって伏せた。
乾いた音が三発。弾は二十メートル横の地面に当たって、白い砂を跳ね上げた。
当てる気はない。追い出す気だ。当てる気になったら、次で当たる。
マーロウは布を抱えて、船の裂け目に飛び込んだ。
*
中は暗かった。床が斜めに傾いている。天井のパイプから何かが垂れて、低いほうへ流れていた。
声がした。
『自爆まで、四分』
女の声だった。抑揚がない。壁のあちこちから同時に聞こえる。
「おい。誰だ、それ」
『自爆まで、三分五十秒』
「待て。話を聞け。まだ中に人がいたらどうする」
『乗員十四名、全員死亡。積み荷は軍の秘密です。規則により自爆します』
街には、まだ喋る機械がいくつか残っている。水道塔にも、市場の秤にも。どれも古くて、同じ言葉を繰り返すだけだ。
この声は、こっちの言葉に返事をしていた。
「積み荷はどこにある」
『あなたは乗員ではありません』
「そんなの見りゃ分かるだろ。どこだって聞いてんだよ」
『後ろから三番目の部屋です。自爆まで、三分二十秒』
教えるのかよ。そう思ったときには、もう走っていた。
その部屋には鉄の箱が六つ並んでいた。五つは鎖で床に留めてあって、落ちた衝撃でひしゃげている。六つ目だけが鎖から外れて、壁に寄りかかっていた。
箱の横に、人が座っていた。
軍服ではない。灰色のコートを着て、壁に背中を預け、足を投げ出している。首が肩のほうに倒れていた。死んでいる。
マーロウはコートに手をかけた。
かけてから、顔を見た。
鼻が少し曲がっている。左の眉が真ん中で切れている。顎の右側に、細い傷が二本。
毎朝、水桶に映して見ている顔だった。
自分の顔が、床に座って死んでいた。歳だけが四つ五つ上に見える。それ以外は一緒だ。
手が離れなかった。離し方が分からなかった。
『自爆まで、二分』
声が言った。
「うるさい」
『自爆まで、一分五十五秒』
マーロウは男の襟の裏に指を入れた。拾い屋の癖だ。帝国に登録された人間の服には、襟の裏に金属の名札が縫い込んである。名前と番号が打ってある。名札は布ではないから金にならない。ただ、外しておかないと買い取り所で面倒になる。
引き抜いて、暗がりで目に近づけた。
マーロウ・ケイン。
その下に、七桁の数字。
「おい。これは誰だ」
『その質問に答える権限がありません』
「じゃあ質問を変えてやる。おれは誰だ」
声が黙った。二秒。
機械が黙るのを、マーロウは生まれて初めて聞いた。
『その質問にも、答える権限がありません』
*
コートを剥いだ。八秒では無理だった。十九秒かかった。
鉄の箱を抱える。片手では持てない。剥いだ布で背中にくくりつけた。
外に出たとき、残りは四十秒。
グリフォンはいない。空は空っぽだった。海壁の上の見張り塔に、人が並んでいる。並んでこっちを見下ろしている。撃ってこない。
走りながら理由が分かった。あと四十秒で消えるものに、弾を使う必要がない。
排水口まで八十メートル。
途中で、音が消えた。
爆発の前には音が消える、と年寄りが言っていた。嘘だと思っていた。
背中を殴られた。
そう感じた瞬間には、もう地面を滑っていた。顔を白い砂にこすりつけながら十メートル。耳の中で高い音が鳴って、他は何も聞こえない。
顔を上げた。
海が立ち上がっていた。
爆風が水面を叩いた。百メートル先の海が、壁みたいに持ち上がっている。持ち上がった水が崩れて、こっちに向かって散った。
火ではない。破片でもない。水だ。
マーロウは立った。走った。生まれてから今までで、いちばん速く走った。それでも追いつかれた。崩れてきた海の先が、背中から頭の上まで、まともにかぶさった。
背中の箱が跳ねる。肩の傷が開く。白い地面に血が落ちる。
その血の横に、小さな黒い点がひとつ、遅れて落ちた。
見なかったことにした。
鉄の格子が見えた。向こうにウィラの顔がある。口が動いている。何を言っているかは聞こえない。
体を押し込んだ。肩の皮がまた持っていかれた。
抜けて、街側の石畳に転がった。
格子の向こうで、細かい水の粒が白い地面に降っていた。
『ばか! ばかばかばか! 死んだと思ったじゃん!』
「死んでない」
『血! 肩! めちゃくちゃ出てる!』
「後で縛る」
『今でしょ!』
*
買い取り所まで、ウィラが箱を引いた。マーロウは歩けた。歩けただけだった。
ニム・カラハンの店は、崩れた水道橋の下にある。ニムはゴブリンで、背はマーロウの腰までしかない。肌は苔みたいな色で、頭はつるつるに禿げている。左の耳のふちが大きく裂けていて、その理由を聞いた者はいない。目は黄色で、瞳が縦に細い。片手の指が七本ある。二百を過ぎているが、ゴブリンの二百は人間でいえば四十そこそこだ。
マーロウがこの街で信用している相手は二人しかいない。片方はウィラで、もう片方がこのゴブリンだった。
ニムは布の山を見た。次に鉄の箱を見た。最後にマーロウの肩を見た。
『順番に聞くぞ。まず布だ。どこで拾った』
「北の市場の外れ。船の後ろ半分だ」
『三百人が群がった場所で、おまえ一人が、軍服を三人分とコートを一着、きれいに剥いできたと。そう言うんだな』
「運がよかった」
『運。ほう、運か』
ニムは布を秤に載せはじめた。載せながら喋る。手も口も止まらない。
『わしはなあ、四十のときからこの商売をやっとる。今年で百六十年だ。運のいい拾い屋ってのは二種類しかおらん。二年で死ぬか、二十年で金持ちになるかだ。おまえはどっちでもない。つまり運じゃないわ』
「じゃあ何だよ」
『馬鹿だ』
それから指を一本立てて、マーロウの肩を指した。
『その傷、鉄で切ったやつだろが。格子だな』
「柵に引っかけた」
『そうかい。柵な。ふん』
それ以上は聞かなかった。聞かないことで百六十年続いた店だった。
支払いは銅貨が四十二枚だった。
勘定の途中で、秤の灯りが一度だけ瞬いた。ニムは舌打ちして秤の腹の蓋を開け、小箱から替えの粒を出した。三つ入っていた。粒は米の半分くらいの大きさで、透明でもないし黒くもない。見ているあいだ、色を決めかねているような色をしている。ニムは入れ替える一つを選ぶのに、一粒ずつ横の印を確かめた。牛、一頭。牛、一頭。羊、二頭。
粒を作るには、水と血の両方が要る。水だけでは変わらないし、血だけでも変わらない。
変わるのは、生き物を通った水だけだ。牛の体の中の水は変わる。井戸の水と雨は、何をしても変わらない。塩を混ぜても無駄だ。禁止区にも乾いた窪地にも塩なら幾らでもあるが、それで粒を作れた者はいない。
粒の大きさは、いつも同じだ。米の半分ほど。大きい粒も小さい粒もない。
血がひとしずく、水に触れる。それで、まわりの水がだいたい桶一杯ぶん消えて、粒が一つできる。
数を決めるのは血のほうだ。ふつうの生き物の血は、一度きりで使い切られる。二粒目は出ない。
だから変換器は、牛を丸ごと入れる。樽ほどの大きさの鉄の箱で、街に二台ある。二台とも帝国のものだ。新しく作れる者はいない。
牛一頭で一粒。羊は血が少ないので、二頭で一粒だ。
渡した水はもう戻らない。雨にもならないし、川にも海にも行かない。牛を一頭分の粒にすれば、その牛の分の水が、この世から消える。
それでも作る理由は、単純だ。
粒は燃える。正確には燃えないが、同じことができる。
水道塔の灯りは、粒を一つ入れておけば十年点いている。市場の秤も粒で動く。ニムの店の奥にある、布の目を数える古い箱も粒で動く。街でまだ動いている機械は、一つ残らずこれで動いている。直せる者はいない。作れる者もいない。ただ、粒を入れ替えれば、また動く。
だから粒は金より高い。金は光らない。
牛一頭で粒が一つ。粒一つで、灯りが十年。
その勘定を、三百年やってきた結果が、今の世界だ。
だから粒には印が要る。何を消したか。
印は変換器が打つ。帝国の機械で作られた証拠だ。印のない粒は、帝国の外で作られたことになる。持っているだけで面倒なことになる。
ウィラが横から覗き込んだ。
『牛の名前は書いてないんだね』
「牛に名前なんかつけないだろ普通。何言ってんだ」
『うちの牛にはあったから』
マーロウは口を開いて、そのまま閉じた。ウィラの家に牛がいたのは四年前までだ。
ニムが咳払いをして、干した杏を一つ、ウィラの手に押しつけた。
『食え。糖が足りとらん顔しとる』
「あたしの顔を見て分かるの?」
『百六十年だ。顔で分かるわ』
*
鉄の箱は、ニムの道具でも開かなかった。
ふたの線がない。つなぎ目もない。振っても中で何も鳴らない。重さだけが、中に何か入っていると言っていた。
『預からんぞ。うちに置いた日から、うちが狙われることになるだろが』
「分かってる」
『分かってるやつが、こういう物を店に持ち込むか! ったく。持って帰れ。今すぐだ。表から出るな、裏の樽をどけて行け』
マーロウは箱を布で包み直した。包みながら、襟から抜いた名札を手の中で裏返した。ウィラには見せていない。見せた瞬間から、ウィラも同じものを背負うことになる。
そのとき、入口が暗くなった。
ドラグ・モーテンセンは、頭を下げて店に入ってきた。下げても天井をこすった。
オークだ。肌は灰色がかった緑。下の牙が二本、唇の外に出ている。髪は頭に張りつくほど短く刈ってある。目は黒くて小さくて、瞬きが少ない。帝国の灰色の軍服、肩に星が二つ。禁止区を見張っている部隊の隊長だった。
マーロウはこの男が苦手だった。怒鳴らないからだ。この街の役人はたいてい怒鳴る。怒鳴る相手は、何を考えているか分かる。
ニムが秤の上の布を、何気ない手つきで帳面の下に寄せた。
『拾い屋のマーロウ・ケインはどっちだ』
「おれだ」
『今朝、壁の向こうに人間が一人降りた』
「そりゃご苦労なこったな」
『見張り塔からは見えていた。顔までは分からん。壁の向こうに行った人間は、普通は戻ってこない。戻ってきた例が、三百年で九件ある。九件とも、後で面倒なことになった』
ドラグが腰の袋に手を入れた。銃だと思った。違った。
金属の名札を一枚、秤の皿に置いた。
『船の後ろ半分から出た死体の襟にあった。街側に落ちたほうだ』
マーロウは皿を見た。
マーロウ・ケイン。その下に、七桁の数字。
自分の手の中にあるものと、同じ名前だった。七桁の数字の、上の四桁も同じだった。下の三桁だけが違っていた。
『心当たりはあるか』
ニムが顔を上げた。ウィラが一歩下がった。
マーロウは手を開かなかった。
「ない」
『そうか』
ドラグは名札を袋に戻した。戻してから、思い出したように付け足した。
『船には十四人乗っていた。街側で拾った死体も、十四体だ』
入口の影が消えた。
しばらく誰も動かなかった。
マーロウは、壁の向こうで数えた死体の数を思い出していた。あれも十四体あった。剥げたのは、そのうち二人と少しだけだった。
灰色のコートの男は、どちらの十四体にも入っていない。
第一章 了
── 第1章 おわり ──