
第1章
声が消える日
スポットライトが、ユン・ハナの頭の上で白く燃えていた。
地下一階の練習室。鏡の壁の前に長い机が一つあって、先生が三人と、いちばん端に社長が座っている。後ろの床には、練習生が全部で十八人、ひざを抱えて並んでいた。
十一月の最後の金曜日。ブルーフェザー・エンターテインメントの月末評価だ。
イントロが流れた。ピアノの音が四つ。歌い出しまで、あと二小節。
鏡の中に、ミルクティー色のボブの、青い顔をした自分が映っている。ハナは息を吸った。いける。今日こそ、いける。
〈また、あの子か〉
声がした。だれも口を開いていないのに。
〈十七位の子でしょ〉
〈早く終わらないかな。次、私なんだけど〉
〈お願い、外して。外したら、私が一つ上がる〉
声。声。声。部屋じゅうの心が、いっせいにしゃべり出す。耳をふさいでも消えない。外からではなく、頭の内側で鳴っているからだ。
歌い出しの音が来た。ハナの口は開いた。
何も、出なかった。
ピアノだけが、一人で先へ進んでいく。ハナの喉は、石をつめこまれたみたいに動かない。
『止めて』
先生の一人が手を上げた。音楽が切れた。しんとした部屋に、自分の心臓の音だけが大きい。
『ユン・ハナ。もう一回、頭から』
二回目は、声が出た。出ただけだった。細くて、ふるえて、サビの高い音で裏返った。後ろの列で、だれかが小さく笑った。笑い声は本物の声だった。そのあとに続いた心の声のほうが、ずっと大きかった。
*
ハナには、子どものころから聞こえるものがある。
人の、強い気持ち。声に出さない言葉が、その人の声のまま、頭の中に届く。ふだんの小さな気持ちは聞こえない。うれしい、こわい、悔しい、そういう強い気持ちだけだ。
このことは、だれにも話したことがない。お母さんにも。話したら、きっと気味悪がられる。そう思ってきた。
そして本番になると、なぜか声が出なくなる。緊張しやすい性格だから。ハナはずっと、そう思っていた。
*
評価の点数は、一時間後に廊下へ貼り出された。
一位、チェ・リナ。六か月続けての一位だった。
十七位、ユン・ハナ。十八人中の十七位。三か月続けて、同じ順位だった。
『ふうん、また?』
すぐ横で、チェ・リナが言った。長い黒髪がまっすぐに背中へ落ちていて、背すじはいつも定規で引いたみたいにのびている。冷たい目が、ハナの名前のところで止まった。
「…たまたま、です」
『三か月続けて、たまたま? すごい偶然ね』
リナはそれだけ言って歩いていった。ハナは言い返せなかった。言い返す言葉なら、頭の中に十個くらいあったのに。
『ねえねえ、ハナっち、気にしちゃだめだよ!』
ルームメイトのオ・ミナが、うしろから腕にしがみついてきた。くるくるの黒髪を二つに結んで、丸い眼鏡をかけている。練習生の寮で同じ部屋になって、もうすぐ一年だ。
『二回目、ちゃんと声出てたじゃん。ていうかサビ、ちょっとかっこよかったし? やばくない?』
〈ハナ、泣かないで。お願いだから、泣かないで〉
ミナの心の声が聞こえた。口ではふざけているのに、心はまっすぐに心配していた。ハナは、泣かずにすんだ。
そのとき、廊下の空気が変わった。
社長のナム・ギョンホが、練習室から出てきたのだ。白髪まじりの髪をうしろへなでつけ、細い金ぶちの眼鏡をかけている。いつ見ても、同じ紺のスーツ。練習生たちがいっせいに背すじをのばした。
社長は貼り紙の前で立ち止まり、静かな声で言った。
『次の評価は、十二月の最後の金曜日です。そこで、下から三人には、この事務所を出てもらいます』
廊下が凍りついた。
〈うそでしょ〉〈どうしよう〉〈私じゃない、私じゃない〉
心の声が嵐みたいに吹き荒れる。その中で、ハナは社長のほうを見た。
社長の心からは、何も聞こえなかった。いつもそうだ。この人は、強い気持ちを一つも持っていないみたいに静かだ。
なのに社長は、ほかの子を見るよりずっと長く、ハナの顔を見ていた。そして何も言わずに、エレベーターへ消えた。
次の評価まで、四週間。二十八日しかない。
*
トイレの個室に入ると、スマホがふるえた。釜山のお母さんからのメッセージだった。
『今日の評価、どうだった? お母さん、魚市場の休み時間に、ずっとスマホ見てたよ』
ハナは「うまくいったよ」と打って、消した。「まあまあ」と打って、それも消した。結局、送ったのは一言だけだった。
「ごめん。また、だめだった」
返事は、すぐに来た。
『ハナの声は、お母さんがいちばんよく知ってる。小さいころ、台所でいっしょに歌ったでしょ。あの声は、ちゃんとハナの中にあるよ』
古い歌だった。お母さんが魚をさばきながら、いつも小さな声で歌っていた歌。題名も知らないのに、メロディーだけは今でも覚えている。
ハナは画面を胸に押し当てた。評価のあいだ、ずっとこらえていた涙が、やっとこぼれた。ここなら、だれにも見られない。だれの心の声も聞こえない。
「…がんばるから」
小さな声で言った。声は、ちゃんと出た。
*
夜の九時をすぎると、事務所のビルは静かになる。
ハナは屋上へ上がった。ここなら、だれの心の声も届かない。一人で歌える、ハナだけの場所だった。
ドアを開けると、冷たい風が顔に当たった。ソウルの夜景が、遠くまで光の粒になって広がっている。見回しても、だれもいない。
ハナは手すりから少し離れた所に立って、今日の課題曲を歌い出した。
声は、出た。
一人のときは、いつもこうだ。のどがすっと開いて、高い音まで素直にのびていく。サビの、さっき裏返った所も、今はきれいに越えられた。最後の音が、夜の空に吸いこまれていった。
なんで。なんで、本番ではこれができないの。
『一人なら、出るんだな』
心臓が止まるかと思った。
貯水タンクの向こう側から、背の高い男の人が出てきた。ベンチに座っていたらしい。銀色の短い髪。黒いロングコート。首には黒いヘッドホン。左の耳で、小さな黒いピアスが光った。
カン・ジウだ。
事務所でいちばん有名な練習生。来年の春にデビューするグループの、最終候補。練習生なら、知らない人はいない。ハナは一度も話したことがなかった。
「お、お疲れさまです!」
頭を下げて、そのままドアへ逃げようとした。
『おい。そこの練習生』
低い声に呼び止められた。
「は、はい」
『十七位だろ。さっきの』
ハナの顔が熱くなった。デビュー組の候補は、月末評価には出ない。部屋にはいなかったはずなのに。
「…見てたんですか」
『ドアの窓から見てた。ひどかった』
ひどい。ひどいのは、その言い方だ。ハナは思わず、ジウの心を聞こうとした。この人は本当はどう思っているのか。いつものように、強い気持ちが聞こえてくるはずだった。
聞こえなかった。
言葉は、一つも聞こえなかった。そのかわりに、メロディーが流れてきた。ピアノのような、やさしい音。聞いたことのない曲だった。悲しいのに、どこか明るい。ずっと聞いていたくなるような、短いフレーズのくり返し。
心の声が、言葉ではなく、音楽になっている。こんな人は初めてだった。
『なに、ぼーっとしてる』
「え、あ、いえ。…なんでもないです」
ジウが二歩、近づいてきた。ハナより頭一つぶん背が高い。灰色の瞳が、上からハナを見下ろした。
『声が出ないのは、のどのせいじゃない』
「…分かってます」
『分かってるなら、なんで直さない』
「直し方が、分からないから!」
言ってしまってから、ハナは口を押さえた。言い返したのは、事務所に入ってから初めてだった。
ジウは少しだけ目を細めた。笑ったのかどうかは、分からなかった。
『毎晩二十二時。地下の二番練習室。次の評価までだ』
「え?」
『来なかったら、それまでだ。二回は言わない』
ジウはそれだけ言って、ハナの横を通りすぎた。ヘッドホンを耳に当てながら。
すれちがうとき、ハナは気づいた。ヘッドホンから、音がもれていない。あんなにいつも着けているのに。音を小さくして聞いているのだろう、とハナは思った。
「あの! どうして、わたしに?」
ドアの前で、ジウが振り返った。
『十位以内に入ったら教えてやる』
ドアが閉まった。屋上に、風の音だけが残った。
あのメロディーは、まだ耳の奥で鳴っていた。
*
寮へ帰る前に、ハナは地下のロッカーへ荷物を取りに行った。
ロッカーを開けると、灰色のパーカーの上に、四つに折った白い紙がのっていた。
開いた。パソコンで印刷した、短い一行。
「あなたの耳のことを知っている」
指先が、すっと冷たくなった。
耳のこと。だれにも話したことのない、あの力のことだ。そうとしか思えなかった。
ハナはあたりを見回した。夜のロッカー室には、だれもいなかった。心の声も、一つも聞こえなかった。
次の評価まで、二十八日。下から三人は、事務所を出る。
毎晩二十二時、地下の二番練習室。
そして、だれかが、ハナの秘密を知っている。
── 第1章 おわり ──