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挿絵

第33章

空欄

夜のうちに、北へ走った。

ケイルは約束を守った。夜が明けるまで、翼は一度も追ってこなかった。

夜明けに一度だけ、南の空に翼が見えた。高くは飛んでいなかった。右が遅れる羽ばたき方で、丘の上に止まって、こちらを見ていた。

追ってはこなかった。

『…約束の範囲を広げたな』とドラグが言った。

「夜のうちは追わない、じゃなかったのか」

『あの男は、昔から、言った以上のことはやらん。言った以下のことも、やらん』

ドラグは、南の空を見なかった。

見なかったのは、見たら止まってしまうからだと、マーロウには分かった。

*

光る草の海を抜けて、黒い土が赤い土に戻ったところで、荷車を止めた。

火を焚いた。

草が光らない場所で火を焚くのは、三日ぶりだった。誰もそれを口にしなかったが、全員が、火の明るさに少しほっとした顔をしていた。

ロズリンが、紙束を膝に広げていた。

いちばん新しい頁を開いていた。番号がびっしり並んでいる。畑の杭から写した番号だ。何百とある。二万には、はるかに届かない。

そのいちばん上に、一行だけ、番号の横に名前が書いてあった。

ガリー・ノーツ。

マーロウは、上着の内側から、古い紙を出した。

端が黒くなっている。七桁の数字が十三個。坑の底で、一から預かったものだ。

「頼みがある」

ロズリンが顔を上げた。

「これを、あんたの帳面に写してくれ。十三人分だ。坑の底で死んだ連中の番号だ」

ロズリンは、紙を受け取った。受け取って、しばらく数字を見ていた。

『名前の欄は、どうしますか』

「マーロウ・ケイン。十三回だ」

『同じ名前を、十三回』

「同じ名前でも、十三人いた。書かないと、一人しかいなかったことになる」

ロズリンは、眼鏡を押し上げた。

それから、筆を取って、一行ずつ書きはじめた。番号。名前。番号。名前。

十三回、同じ名前を書いた。一回も、書く速さを変えなかった。

書き終えて、ロズリンが訊いた。

『もう一人、いますね』

「…ああ」

『何と書きますか』

「一」

ロズリンは、筆を止めなかった。

番号の横に、一、と書いた。一文字だけの名前を。

それから、その横に、もう一つ書き足した。

生存。

*

ドラグが、火の反対側から、立ち上がった。

ロズリンの横まで来て、座った。座ってから、しばらく何も言わなかった。

「…隊長?」

『一行、頼めるか』

「どなたの、ですか」

『兄のだ』

ロズリンは、帳面の後ろの頁をめくった。そこに、空いた行が一つあった。

街を出る前から、空いていた行だった。黒の書の十人目の隣に並べて、ロズリンが自分で作っておいた欄だった。

「何と書きますか」

『ケイル・モーテンセン。生存』

ドラグは、少し間を置いた。

『翼あり。借り物』

ロズリンは、書いた。

書き終えて、筆を置いて、小さく言った。

「…空欄が、一つ減りました」

『そうか』

「減るのは、いいことです。私にとっては」

ドラグは、何も答えなかった。

答えなかったが、立ち上がらなかった。火が小さくなるまで、ロズリンの横に座っていた。

ロズリンも、それを書かなかった。

*

ウィラは、荷台の上で膝を抱えていた。

マーロウは、隣に上がって座った。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

『ねぇ』

「なんだ」

『一さん、ほんとに平気かな』

「平気じゃないだろうな」

『…嘘でもいいから平気って言ってよ』

「言わない。おまえ、嘘つかれるの嫌いだろ」

ウィラは、少しだけ笑った。欠けた前歯から息が漏れる、いつもの笑い方だった。

『…うん。嫌い』

火の音がした。

遠くで、ミラベルが一人で北を見て座っていた。いつもなら誰かに話しかけているのに、今夜は黙っていた。

『ねぇ、マーロウ』

「なんだ」

『街に帰ったらさ』

「うん」

『また、一緒に暮らせる? 納屋で。北の壁が崩れてるとこで。水道橋の上で夕焼け見たりしてさ』

マーロウは、すぐには答えなかった。

頭の中に、白い部屋があった。錆びない金属の壁。抑揚のない声。三十年。この建物から出られない。

ウィラは十五だ。三十年たてば、四十五になる。

その計算を、もう一度した。

「…ああ」

言った。

『ほんと?』

「ほんとだ」

ウィラは、マーロウの肩に頭を預けた。

『よかったぁ』

マーロウは、この子が見抜けない嘘をついたのは、三年で初めてだと思った。

嘘をつかれるのが嫌いな子に。

ウィラは、すぐに寝息を立てはじめた。マーロウは、動かなかった。朝まで、動かなかった。

*

朝になって、サイラスが、荷車の陰で何かを見ていた。

手のひらほどの、薄い硝子の板だった。板の中に、白い字が浮かんでいた。

マーロウは、それを見たことがなかった。

「何だ、それ」

サイラスは、答えなかった。

答えずに、板を見ていた。眼鏡の奥の目が、笑っていなかった。この男の目が笑っていないのを見るのは、初めてだった。

「おい」

『…本部からの報せでございます。本部は、こういう板で、手の者に字を送ります』

「何て書いてある」

サイラスは、板をマーロウに向けた。

白い字が、並んでいた。

帝国暦三四八年。掘削地、坑口崩落。

坑より上昇した個体、一。

北西へ移動中。進路上に東の哨所。

推定到達、海壁の街。二十日後。

マーロウは、三回読んだ。

四回目は、読めなかった。字が目に入ってこなかった。

東の哨所。ブリンがいる。ボロがいる。西へ歩いたハーランと十九人の坑夫が、今ごろ着いているはずの場所。

海壁の街。ヴェスタの店がある。棚に麻の反物が並んでいて、その一本に筒が縫い込んである。ニムの店がある。三割引の肉を三回自慢したゴブリンがいる。ガスがいる。サムの妹が、兄の飯をこさえて待っている。

二十日。

ここから街まで、荷車を急がせても半月はかかる。

「…個体、って何だ」

サイラスは、答えなかった。

知らないのだと、顔で分かった。

*

マーロウは、ミラベルのところへ歩いた。

ミラベルは、まだ北を見て座っていた。一晩じゅう、そうしていたらしかった。

「おい」

『…うん。聞こえてた』

「何が上がってきた」

ミラベルは、答えなかった。

いつもみたいに笑わなかった。いつもみたいに、坊や、とも言わなかった。

左腕を持ち上げて、金属の指を、一本ずつ開いて、閉じた。

『…あたしさ、本部に最初に作られたって言ったよね。水を守る刃だって』

「言った」

『二百十年、ずっと思ってたんだよね。何から守るんだろうって。水は、誰が見たって減る一方なのにさ』

ミラベルは、立ち上がった。

北西を向いた。

『今、分かった』

それだけ言って、ミラベルは荷車のほうへ歩いた。

歩きながら、振り返らずに、いつもの声で言った。

『行こっか、坊や。二十日しかないんでしょ』

声が、いつもより、ずっと明るかった。

*

荷車を、北西へ向けた。

ウィラが、荷台の上で目を覚まして、マーロウの袖をつかんだ。

『…帰るの?』

「帰る」

『街に?』

「街にだ」

ウィラは、それ以上訊かなかった。

訊かないで、マーロウの袖をつかんだまま、前を向いた。

赤い土が、地平線まで続いていた。その向こうに、哨所があって、二十三日の荒れ地があって、崩れた水道橋があって、その上に、夕方になると赤くなる場所がある。

そこへ、何かが先に向かっている。

マーロウは、帯の左側を押さえた。革の小袋が、七十六粒ぶん重かった。右側には、ガラスの筒が一本。

荷台には、海の水が、百二十本から使った分を引いた数だけ積んである。

本部との約束の日数は、まだ残っている。

ウィラとの約束は、嘘だった。

どちらを守るのか、まだ決めていなかった。

決めないまま、荷車は動きだした。

第三十三章 了

第一巻 了

── 第33章 おわり ──

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