
第19章
本部
連れていかれたのは、道から三つ目の建物だった。
入口に段差がない。扉が勝手に開いた。廊下の床が乾いていて、埃が一粒も落ちていない。
マーロウは十年、崩れた街で暮らしてきた。埃のない床を見たのは、生まれて初めてだった。
「あんた、名前は」
『アディ・ノールと申します』
「ノールか。名字があるんだな、ここの連中は」
『はい。全員にございます』
「誰がつけた」
アディは、少しだけ首を傾けた。考えている動きではなかった。答えを探している動きでもなかった。傾けただけだった。
『存じません。ついておりましたので』
*
風呂は、湯だった。
湯が、桶に三杯もあった。
マーロウは、その量を見て、しばらく動けなかった。街では、体を洗うのに濡らした布を使う。湯を使うのは、市場の隅の風呂屋で、銅貨が六枚かかる。
ここでは、誰も数えていなかった。
『お召し物はこちらに』
アディが台の上に服を置いた。
マーロウは袖を見て、丈を見て、肩幅を見た。
合っていた。
目分量で合っているのではない。ヴェスタが三度直してくれた上着より、よほど合っていた。
「いつ作った、これ」
『先月でございます。着任のご予定に合わせて』
「寸法は」
『台帳にございます』
マーロウは、その返事を三回頭の中で繰り返した。
会ったこともない人間の肩幅が、書いてある台帳がある。
*
脱いだ服は、アディが持っていった。
持っていかれる前に、マーロウは二つだけ抜いた。
一つは、帯の縫い目に押し込んだ革の小袋。粒が百。
もう一つは、布に巻いたガラスの筒。街へ持って帰る一本だ。
抜いて、湯桶の下に滑り込ませて、体を洗い終わってから、新しい服の帯に移した。
三十日壁を登った人間の手つきではなかった。十年、死体から服を剥いできた人間の手つきだった。
アディは見ていなかった。
いや、見ていた。見ていて、何もしなかった。
それがいちばん気味が悪かった。
*
廊下を歩いているあいだに、数を数えた。
すれ違ったのは十一人。そのうち三人が同じ顔だった。四十くらいの男で、三人とも右の耳が少し欠けている。
全員が頭を下げた。全員が同じ角度で下げた。
「一つ訊いていいか」
『どうぞ』
「ここの連中、笑わないのか」
『笑います』
「見てないぞ、一回も」
『おかしいことがあれば笑います。今日はまだございません』
マーロウは、その答えを聞いて、少し安心しかけた。
安心しかけた自分に気づいて、やめた。
オットも、たぶん同じことを言う。
*
突き当たりの部屋の前で、アディが止まった。
扉が開いた。
中に、先客がいた。
黒い髪を油で撫でつけて、丸い小さな眼鏡をかけている。服が清潔だった。この街では全員の服が清潔なので、それは特徴にならなかったが、それでも分かった。
『ケインさん。お久しぶりでございます』
サイラス・メレディスだった。
マーロウは、まず日数を数えた。
馬で六日。自分は三十日。この男は、二十日以上前からここにいる。
「…早いな」
『ええ。馬がよく走ってくれまして』
「おれが登ってくるって、報告したのか」
『いたしました。二十二日前に』
「信じてもらえたのか。三千八百メートルの壁を、人が登ってくるって話を」
サイラスは眼鏡を押し上げた。押し上げてから、口の端を上げた。
『信じるも何も、あの通路を作ったのは、こちらでございますので』
*
マーロウは、その一言で足を止めた。
三十日かけて登った。棒が一万二千本以上あった。九百メートルの横穴に骨が一つ転がっていた。一が七年かけて押す場所を見つけて、二年かけて順番を見つけた。
その扉の向こうの梯子を、こいつらは知っていた。
「知ってて、九年放っといたのか」
『放ってはおりません。使う予定がなかっただけでございます』
「下に人がいるのは」
『存じております』
「九年だぞ」
『はい。九年でございます』
マーロウは、この男を殴らなかった。殴っても意味がないからではない。殴ったら、この先を聞けなくなるからだ。
そう自分に言い聞かせるのに、十秒かかった。
*
部屋は広かった。
家具がない。椅子が二脚あるだけだ。
正面の壁が、下と同じ金属だった。継ぎ目が見える。細い線が規則正しく走っていて、途中で直角に曲がって、また並んでいる。
錆びていない。
『おかけください』とサイラスが言った。
「立ってる」
『そうですか。では立ったままで』
サイラスは自分だけ座った。
壁が、喋った。
『一〇六番』
女の声だった。抑揚がない。壁のあちこちから同時に聞こえる。
マーロウは、その声を知っていた。
六十五日前、墜ちた船の中で、自爆までの秒数を数えていた声だ。
「…おまえ、あの船にいたやつか」
『あの船に置いてありました』
「置いてあった」
『はい。船ごと失われました。あなたが生き残った側です』
マーロウは、部屋の中を見回した。
この壁の向こうに、どれだけのものが入っているのか、見当がつかなかった。
*
「一〇六番ってのは、おれのことか」
『はい』
「名前がある。マーロウ・ケインだ」
『存じております。名前は百六人で共有しています。番号は共有していません』
百六。
マーロウは、その数字を口の中で転がした。
三人だと思っていた。腕の数字と、名札が二枚。
ここへ来るまで、十四人と一人だと思っていた。
「百六人、作ったのか」
『はい』
「今、何人生きてる」
声は、答えるまでに少し間を置いた。
機械が間を置くのを、マーロウは二度目に聞いた。
『その質問にお答えする権限を、私は持っています』
「じゃあ答えろ」
『二人です』
*
部屋の中が静かになった。
サイラスは椅子に座って、膝の上で手を組んでいた。何も書いていなかった。この男が紙を持っていないのを、マーロウは初めて見た。
「二人」
『あなたと、坑底の一名です』
「残りの百四人は」
『使用済みです』
マーロウは、拳を握った。握ってから、開いた。
「言い方があるだろ」
『あります。どの言い方をご希望ですか』
「…そういうことじゃねえよ」
『失礼しました。記録上の表現を使いました。以後、死亡と申します』
声に悪気はなかった。悪気があるほうが、まだましだった。
*
マーロウは、三十日ぶんの質問のうち、いちばん大きいのを先に出した。
「一つ聞かせろ。おれたちを作らせてるのは帝国か」
『いいえ』
「じゃあ誰だ。この街の誰かか」
『いいえ』
「はっきり言え。誰が作った」
『私です』
マーロウは壁を見た。壁は壁のままだった。
「…帝国の許可は」
『必要ありません。帝国は、私の出した書類を処理する側です』
「逆だろ。おまえが帝国の機械なんだろ」
『逆ではありません。順番の話です』
サイラスが、そこで初めて口を挟んだ。
『ケインさん。哨所でも掘削地でも、書類は本部直送だと申し上げましたね』
「聞いた。何度もな」
『本部というのは』
サイラスは、座ったまま、正面の壁を手のひらで示した。
『ここのことでございます』
第十九章 了
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