
第1章
空中通路の追跡
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高さ二百メートルの空中通路を、灯野レンは全力で走っていた。
夜のミナカは明るい。足もとのガラスの下で、何千もの窓が光っている。ぼさぼさの黒髪が風に逆立つ。背中では、オレンジのジャケットの「07」の文字がばたばたと揺れた。
後ろから、ぶうんと低い音が追ってくる。静音局の追跡ドローンだ。全部で三台いる。赤いライトが、レンの影を床に縫いつける。
「しつこいんだよ! 負けてたまるか!」
すり減ったスニーカーの赤いひもが、走るたびに跳ねた。
〈ちくしょう。あそこで黙ってりゃよかったんだ〉
一時間前のことだ。レンは静音局の支所に乗りこみ、窓口の机をたたいた。
「四日前に連れてかれた女の子はどこだ! 十一歳の子だ! 返せ!」
出てきたのは、色を抜いた金髪の若い男だった。そばかすのある細長い顔に、明るい緑の目をしている。額には緑のゴーグルを上げ、両肩に小さなドローンを一台ずつ乗せていた。名札には「戸鞠ジン」とある。軽そうな男だ、とレンは思った。
『ん? キミ、灯野ミオの兄っすか?』
違う、と言えばよかった。けれど、のどがかちんと固まった。レンは生まれつき、嘘が言えない。言おうとすると、言葉が出てこないのだ。
〈…言えねえよ、嘘は〉
『あ、黙った。顔に、はいって書いてあるっす。はい確保〜』
それで、この追いかけっこだ。
通路の先に、帰りがけらしいスーツの男がいた。レンはその横をすりぬけ、柱の陰に飛びこんだ。ドローンが男の前で止まる。スピーカーからジンの声がした。
『そこのおじさん。オレンジの上着の少年、こっちに来たっすか?』
男はちらりと柱を見た。それから、ドローンに向かって言った。
「少年は、見てい…」
声が、途中でぷつりと切れた。男の口は動いている。でも、音がない。男は自分ののどを押さえた。その右手首に、灰色の輪の印がじわりと浮かんだ。
『あーあ。嘘はダメっすよ、おじさん。ルールはルールっす』
ミナカでは、嘘を言った瞬間に声が消える。子どもでも知っている決まりだ。
〈俺をかばって…〉
レンは歯を食いしばった。助けたい。でも、ここで止まればつかまる。赤いライトが、柱の陰にさっと向いた。
『見ーつけたっす』
「くそっ!」
レンは手すりまで追いつめられた。腰のワイヤーフックに手をのばす。だが、引っかける場所がない。下は二百メートルの夜の底だ。
そのとき、頭の上で何かが光った。
荷物運びのケーブルが、すべるように近づいてくる。それにぶら下がった小さな影が、片手をのばした。黒いフードに、大きすぎるコートの袖。
レンは迷わずその手をつかんだ。体がふわりと浮く。ケーブルはドローンの間をすりぬけ、ビルの谷間へ走りこんだ。
*
着いたのは、古い給水塔の中だった。錆びたタンクの裏に、毛布と小さな電気コンロが置いてある。
フードを外したのは、少女だった。銀色がかった灰色の短い髪で、左側だけがあごまで長い。青みがかった灰色の瞳。小柄で、コートに埋もれてしまいそうだ。冷たい雪みたいな子だ、とレンは思った。
少女は左手首の腕輪の板を、指ですっとなぞった。白い文字が光る。
『霧雨ノア。声は出ない。以上。』
「…灯野レン。助かった。礼を言う」
ノアは返事の代わりに、湯をわかした。出てきたのは、一番安いしょうゆ味のカップ麺が一つだけだった。ノアはそれを半分すすると、カップをレンへ押しつけた。
「いいのか? お前の晩飯だろ」
『いいから食べて。おなかの音、うるさい。以上。』
「う、うるさくねえよ!」
言ったそばから、腹がぐうと鳴った。ノアの肩が小さく揺れた。笑っているらしい。レンは赤くなって、麺をすすった。ぬるくて、しょっぱくて、やけにうまかった。
「さっきのおっさん、俺をかばって声をなくしちまった」
ノアの指が腕輪の上を走った。
『嘘を言えば声は消える。でも七日のうちに、嘘をついた相手に本当のことを伝えれば戻る。字で書いてもいい。以上。』
「…じゃあ、あのおっさんも戻れるんだな」
ノアがこくりとうなずいた。レンは少しだけ息をついた。
それから、妹のことを思い出した。
四日前の夜。配達から帰ると、部屋が暗かった。ミオの黄色いリボンが、床に一本落ちていた。玄関の扉には、見覚えのない銀色のシールが貼られていた。「聞き取り済」とだけ書いてあった。
灯野ミオは十一歳だ。茶色の髪を二本の三つ編みにして、黄色いリボンで結んでいる。丸い顔に大きな茶色の目。兄のお下がりのぶかぶかなジャケットを着て、よく首をかしげていた。
『お兄ちゃん、聞こえる? 誰もいないのに声がするの!』
「しねえよ。寝ぼけてんだろ」
そう笑って、頭をなでた。それが、最後の普通の夜だった。
「妹がいなくなったんだ。ミオっていう。静音局が連れてったはずなのに、誰も何も言わねえ」
ノアの指が、しばらく止まった。それから、ゆっくりと文字が光った。
『妹は静音塔。首輪をつけられた。閉じるのは三回目の夜明け。以上。』
「首輪…? 閉じるって、どういうことだ」
『閉じたら、妹は自分の声と外の記憶をなくす。あなたのことも忘れる。以上。』
レンはカップを握りしめた。
「三回目の夜明けって…あと三回、朝が来たら終わりってことかよ」
ノアがうなずく。
「なんでお前、そんなこと知ってんだ。それに、なんで俺を助けた?」
ノアは答えなかった。ただ、腕輪の上で指が動いた。
『あなたが嘘をつけない人だから』
いつもの「以上。」がなかった。
ノアはすぐにコートの袖を引っぱり、右手首を隠した。けれどレンには、その一瞬だけ見えていた。さっきのスーツの男と同じ、灰色の輪の印が。
── 第1章 おわり ──
